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1.猫と吸血鬼
ボクこと賀川珠樹には、最近変わったことが三つある。
ひとつ、血液型がO型だとわかったこと。
ひとつ、親友が一緒に帰ってくれなくなったこと。
そしてもうひとつは……猫を飼い始めたこと。電柱の陰でニャアニャア鳴いていたのを拾ってきたのだが、これが少々変わった猫だ。まるでぬいぐるみみたいにずんぐりした体型で、目もギョロギョロとして大きい。手足は寸足らずもいいとこだ。
「まあ、デメキンみたいなもんなんじゃない?」
ママはそう言って全然気にしてない。加えてボク自身、この不細工も見慣れると愛嬌が感じられてきて、気に入るのにそう時間はかからなかった。
そして、ニィニと名付けられたこの猫は、今夜もボクの膝の上でくつろいでいる。まだ夜は寒いこの時期、こうして暖を取りながら十時のニュースを見るのがボクの習慣なのだ。
「うりゃうりゃ、そんなにおねーさんが好きなのか? 愛い奴よのー」
顎の下を撫でてやると、ニィニはゴロゴロと気持ち良さそうだ。よく食べ、よく眠り、よく甘える。それでいて手がかからない。猫のことは詳しくないがペットとしては上出来だ。ボクがニィニを撫でくり回していると、隣で晩酌中のママがボクの肩をトントンと叩いた。
「これ、うちの近くだわ」
そう言ってママはテレビを指差す。そこにはある住宅街の風景が映っていた。
「そうなの?」
地理に疎いボクにはわからなかったが、ママは買い物やらの時に通るのかもしれない。
「最近はどこも物騒ってことかしらね。あんた行き帰り気を付けなさいよ?」
ニュースによると、ここひと月の間、この近辺で若い女性が遺体で見つかる事件が頻発しているらしい。昨日もまた一人だ。死亡者一覧にはボクのような高校生も含まれている。
「何、殺人事件? 怖いなぁ……おちおち学校も行ってらんないや」
ボクの冗談半分に、ママが「ばーか」という風に頭をはたいた。
「あんたの逃げ足なら大概のことは大丈夫よ」
「人聞き悪いなー、韋駄天って言ってくれる?」
自慢じゃないが、これでも中学の頃ソフトボール部で鳴らした俊足なのだ。ママはハイハイと流してから、出し抜けに五千円札をボクの鼻先に突きつけた。
「じゃあ、韋駄天ついでにお使い頼める? つまみが切れちゃった」
ボクはずっこけそうになった。
「あのニュース見た後でよく娘を夜道に放り出せるね」
「おねがーい、お釣りはお駄賃にしていいから!」
もう慣れたことだが調子のいいママだ。
「……まあいいけど」
お駄賃と聞いては行かざるを得ない。ボクはニィニを膝から降ろそうとした。すると、どうしたことだろう、ニィニがボクにしがみついて離れようとしない。甘えているのだろうか。
「ほら、降りて降りて。ボクはお駄賃もらうんだぞー」
言い聞かせても、なおもニィニは離れない。
「おニィちゃんは束縛強いタイプと見えるわね。ふー、妬ける妬ける」
ママの冷やかしは無視して、結局ボクはニィニを抱いたまま買い物に出た。
(コンビニって猫大丈夫だっけ……まあちょっとの間外に座らせとけば……)
そんなことを考えながら、ボクは街灯もまばらな夜道を歩く。夜歩きは嫌いではないが、こう暗くて人気も無いと少し怖い。腕の中のニィニは爪を出して唸っている。
(服に穴は開けないで欲しいんだけどな……しかしニィニはどうしたんだ?)
たまたま虫の居所が悪いのか、それとも虫の知らせか。さっき不穏なニュースを見てしまっただけにブルッと来てしまう。早く用事を済ませようとボクは足取りを速める。
ジョギングぎみに駆けて行くと、ボクはやがて小さな公園に差し掛かった。すると暗い公園の中で何者かが動く気配がした。ボクはびっくりして植込みの陰に隠れ、様子を窺った。朧な電灯が頼りなく照らす広場の片隅に、男女の二人組が立っていた。
(……なんだ、ただのアベックか)
髪を二つに結った女性と、それを抱きすくめている背の高い長髪の男性だ。
(まー、野外で大胆なこと。これじゃボクは出歯亀だな。でもまあ、もう少し……)
全く興味本位でボクは覗き見を決めた。ニィニが鳴かないよう注意しながら観察する。男性は女性の首筋をしきりと甘噛みしており、女性も男性の背中に手を回して応えている。何とも情熱的な光景だが、見ているうちにボクは奇妙なことに気が付いた。男性の髪の毛はとても色が薄く、白髪と言ってもいい程だったのだが……その長い白髪のうちの一房が、いつしか風も無いのにユラユラと揺れ動き始めたのだ。
(えっ……何だあれ?)
目の錯覚ではなかった。その一房の髪はやがて牙持つ蛇のように鎌首をもたげ、するすると女性の背中側に回り込んだ。女性は男性の愛撫に身を任せきりで、異変に気付いていない。髪の蛇はまるで意思を持つかのように狙いを定め、先端を女性のうなじに突き刺した。
(噛み付いた? 髪の毛が? いや、まさかそんな!)
瞬間、女性の体がビクンと痙攣し、男性の腕の中で何度も跳ねた。それに合わせるように白髪もドクン、ドクンと脈打つように蠢く。然る後に起こったことにボクは息を呑んだ。
なんと、真っ白に近かった髪の毛が、うなじに突き刺さっている先端から徐々に赤く染まり始めたのだ。まるで注射器で吸い上げられるかのように、赤い色が髪の房を上っていく。するとどうだろう、女性の顔からみるみる血の気が失せていくではないか。男性の背中を抱いていた彼女の腕からも徐々に力が抜けていき、やがてダラリと垂れ下がった。
(まさか、まさかあれって……血? 髪の毛が血を吸い上げてるのか?)
とても信じられないことだ。だが一方の男性はどうだ。女性から吸い上げた血の赤は生え際に達するやそこから全体に広がり、とうとう男性の髪は鮮やかな赤色に染まってしまった。同時に女性が糸の切れたように崩れ落ち、地面に転がった。
(……死んだ……女の人が死んだ! 血を吸われて死んだんだ!)
最早ただの物体になった女性を見下ろし、真っ赤な髪の男性がカカカカと狂った笑い声を立てた。そのかすれた響きに、ボクは背筋がゾッとした。
(赤い髪の、吸血鬼! 血を吸う悪魔!)
そう思う他無かった。ボクは早急に立ち去ろうとした。だが焦ったのがいけなかった。立ち上がりざま音を立ててしまった上に、吸血鬼に姿が丸見えになってしまったのだ。
「あっ……!」
吸血鬼がボクを見た。憂いを帯びたその両眼は妖しく金色に光っている。その光がボクを一瞬で射竦めてしまい、身動きひとつできなくさせてしまった。まるで金縛りのようだ。
(えっ、なんで、どうして……っ!)
逃げ出したい。視界にすら入れたくない、入りたくない。しかしそんな願いとは裏腹に、ボクは吸血鬼から少しも目を離すことができなかった。吸血鬼はニヤリと口角を上げると、立ち尽くすボクに向かってゆっくりと歩み始めた。ボクをも餌食にするつもりなのだ。
(いやだ、いやだ! 誰か……誰か助けて! 誰か……っ!)
と、その時であった。今まで黙っていたニィニが「フギャア!」と悲鳴のような鳴き声を上げ、ボクの腕に思い切り爪を立てた!
「いったーぁ!」
思わず叫び出す程の痛み。それと同時に体が自由になった。ボクはハッとして踵を返し、脱兎のごとくその場から逃走した。振り返る勇気など無かった。ただひたすら走って、走って……気付けば商店の明かりで昼のように明るい大通りへ出ていた。この時間でもまだ人通りがあり、車も行き交っている。溢れかえる雑音がボクに安らぎを与えてくれた。
(……助かっ……た……?)
恐る恐る、後ろを見る。急ぎ足の人々がボクの脇を通り過ぎて行くのみ。恐ろしい吸血鬼は追って来ていなかった。ボクは気が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
その後のことだが、ボクはあの暗い道に引き返す勇気が出ず、タクシーを捕まえてワンメーターの距離を送ってもらった。一応お使いは果たしてから帰ったのでママはご機嫌だったが、夜道が怖くてお駄賃をタクシーに使ったと説明すると死ぬほどに笑い転げてくれた。ボクとしては少しむかついたが、これで良いのだろうと自分に言い聞かせた。間抜けな笑い話にしてしまえばいいと思った。あんな怖い思い、すぐにでも忘れたかったからだ。
それから一週間が過ぎた。
公園で見た出来事は、どうしたことかついぞ新聞やニュースには出なかった。殺人事件の類として報じられるものと思って戦々恐々としていたボクは、肩すかしをくらった格好となった。改めて公園に赴くと、そこではいつも通り子供やお年寄りが憩っており、地面には血の痕すら見つからなかった。まるで吸血鬼などあの夜限りの悪夢であったかのようだった。
そして、ボク自身の恐怖の記憶もだいぶ薄れてしまっていた。あの後、おつまみを得て勢いづいたママと騒いでいるうちに、既にボクの心は現を取り戻していたのだ。元が夢のような話であっただけに、平静を保ちさえすれば喉元過ぎるのは早かったらしい。
今では吸血鬼のことなどボクはあまり気にしなくなっていた。尤もそれに関しては、ボクの日々の生活においてそれに勝る悩みがあったためでもあるのだが。その悩みに比べれば、吸血鬼などというファンタジーはさほど深刻でもないのだ。現に昨夜も、ボクはそれがためになかなか寝付くことができず、本日は派手に寝坊をやらかした。
ボクは遅刻ギリギリに登校した。始業直前に教室に滑り込んだものだから落ち着く暇などある筈もなく、昼休みになってやっと一息つくことができた。ボクが疲れ果てて机に突っ伏していると、最近よく話す木本沙彩がやって来た。
「よっ、珠樹坊や」
ボクを坊やと呼ぶ沙彩は気さくで洒落っ気があって、なんだかいい匂いもする。しかも生徒会の副会長だというのだから、成程、ボクなんか坊やで上等だろう。
「朝から韋駄天発揮してたね」
「こんなカッコ悪い韋駄天も無いよ。もう恥ずかしくって」
始業直前に教室に駆け込んで来たボクは物凄い顔をしていたらしく、何人かから笑いが漏れていた。沙彩も今その時のことを思い出し笑いしたようだ。目の保養になる微笑みだ。
「今日はまたどうしたん? 寝坊?」
「まあね……っていうか寝不足かな。ほら、天然のアイシャドー」
ボクがそう言って目の下の隈を指し示すと、沙彩は噴き出した。
「あっはは、塗るなら目の上でしょうよ。何よ何よ、考え事でもしてたの? まさか、秋月さんのことでまだ悩んでるなんてこと無いよね?」
沙彩がそう言った瞬間、ボクの胸がキュッと締まった。それは顔にも出ていたらしく、察した沙彩がしまったという顔をした。
「あっ……マジ? ひょっとしてまだ触れちゃまずかった?」
「いや、いや、まずくはないかな。ごめん、大丈夫。大したことないから」
慌てて取り繕うがぎこちなかった。沙彩を心配させてしまったようだ。
「ううん、あたしこそごめん。ほんと、どうしちゃったんだろうね……秋月さん」
秋月さんというのは、隣のクラスの秋月レナのことだ。大きな家に住んでいるお嬢様で、ボクとは小学校からの長い付き合いだ。ボクは率直なところレナのことが大好きで、無二の親友だと思っていたのだが……彼女はひと月ほど前から急にボクを避け始めた。理由も告げず、本当に突然にだ。今では殆ど口を利いてくれないし一緒に帰ってもくれない。
「レナと疎遠になっちゃうのは初めてじゃないけど、前はここまでじゃなかったなー」
「えっ、何よ何よ、前にもあったの?」
目を丸くする沙彩。そう言えば沙彩には言っていなかった。
「中一の時、レナが近所に住んでた先輩に凄く入れ込んでて。寂しかったなーあの頃は」
レナの相手のことは覚えている。枕崎悟朗とかいう高校生だった。色が白くて、目が物憂げに垂れていて……まあ見目は良かった。ボクは彼とは何度か話したが、正直言って好かなかった。レナに相応しい男だとはどうしても思えず苛立ちばかり募った。それでも、あの頃レナは彼に構いきりで、ボクはこの世の終わりかと思ったものだ。
「それって、年上と付き合ってたってこと? おませさんだったんだねぇ」
「親御さんとか周りの人は呆れてたけど、まあレナは満足してたんじゃないかな。でも次の年にその先輩が東京の大学に進学して……よく知らないけど、結局は自然消滅したみたい」
そこまで聞くと、沙彩は腕を組んで少し唸った。
「なんつーか意外。秋月さんってそうだったんだ。男ができたらそっち最優先ってわけね。でもさ、今回はちょっと違うんじゃない? 親友のこと避けたりなんて普通しないよ」
沙彩の言う通り、今回は少々度が過ぎている上に原因がはっきりしない。だが、今のボクに何ができようか。ろくに口も利いてくれない現状で、このうえ下手に干渉してレナの機嫌を損ねでもしたら、ボクは生きてはいられないだろう。
「レナにはレナの自由があるしね。待つしか無いんじゃないかな」
今レナが誰に……もとい何に夢中になっているのかは知らないが、そのうち熱が冷めればボクの方を見てもくれるだろう。その時元のレナに戻っていようが、隣に誰かくっついていようが、ボクに口を挟む権利は無い。気を揉むだけ損だ。
「ボクは大丈夫だよ。家に帰れば猫が居るし、沙彩だって仲良くしてくれるしさ」
「そう、なんだ……へへへ」
沙彩は少し照れたようだったが、やがて上からがばっとボクに抱き着いて来た。
「ならば良し! 言っとくけどあたしは離してなんかあげないからね。最近、坊やの付き合いがいいからもう嬉しくって。あたしだって散々振られてきたんですよーだ」
「沙彩……」
そんなつもりは無かったのだけど、これまで沙彩には済まないことをしていたようだ。しかしこうも素直に告げられると、なんだかこの副会長殿が可愛く思えてくる。
「そうかそうか。愛い奴、愛い奴よ」
ニィニにするように顎の下を撫でてやると、沙彩は「やぁだー」とくすぐったがる。ボクは更に微笑ましい気持ちになる……が、その時、廊下を見慣れた人物が通りかかった。
レナだった。廊下側の窓は全て開け放たれているが、レナは教室の中を一瞥すらせず、そのまま通り過ぎていく。磨りガラス一つおきに順々に見える彼女の姿を、ボクは目で追わずにはいられなかった。なびく黒髪の軌跡が美しく、妙に名残惜しかった。
《つづく》
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