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娘がふわりと体を起こして正座した。
若者はまた空気が変わったのを感じ、相手に視線を向けた。彼女が驚いたように目を開き、じっと見据えたのち、ゆるゆると微笑した。
「わたしが見えるのだな」
「はい」
「わたしの声が聞こえるのだな」
「はい」
「そうか」
娘は深くため息をつき、すっと目を閉じた。
「そうか……」
「あの、何か不都合でも」
娘は瞼を上げてくすっと笑った。
素早く立ち上がり、ぴょんと跳ねて天井近くまで浮かび上がる。
「不都合などあるものか。のう、わたしは退屈しておったのだ。守り神が暇なのはよいことだが、続くとかなわん。お前、わたしの相手になれ。一緒にいろんな遊びをするのだ」
「お断りします」
「なっ……。いま何と」
つい反射的に拒んだが、若者は内心、冷や汗をかいた。幼子が遊びをねだるようだとはいえ、相手は神様なのだ。
咳払いして口を開く。
「失礼しました。確認したいのですが、それは月に二、三度でよろしいですか」
絶句していた娘が、今度は憤慨する。
「よろしいわけがあるか! お前は馬鹿か」
「では少し増やすとして、お相手するのは四半刻ほどでご満足いただけますか」
「お、お前、気は確かか? 四半刻など一瞬ではないか。何の慰めにもならぬ」
若者は短く息を吐き、改めて天井を見上げた。
相手は動揺しており、浮いていても恐ろしい存在には感じない。
「ご存知でしょう、農民の生活を。暇な時や休みの日もあります。しかしそれ以上の時間を割けと言われるのでしたら、俺は母と共に飢え死にしなければなりません」
「いや、わたしもそこまでは申しておらぬ」
「安心しました。守り神さまのおかげで、明日からの生があるものと心得ます」
言いくるめて若者は頭を下げ、娘の不満顔を無視した。
神に対してこんな態度を取っていいのだろうか。だが庇護下の存在とはいえ、こちらにも事情はある。
彼女はやや一方的な物言いをするものの、何が何でも自分の意見を通さなければ気が済まないたちではないようだ。
娘は畳に降り立つ。若者が顔を上げると、彼女は遠慮がちに言った。
「せめて話し相手というのは駄目だろうか? 仕事の邪魔はせぬし、風の音や鳥の声を聞く時は黙っておる。それならお前や母を餓死させることはあるまい」
「目も鼻も耳も、全身全霊で畑に注ぎ、未だ半人前という有様です」
すると娘は淋しそうな目をした。
「……すまぬ、無理を言うた」
なんとか懸命の笑みを浮かべる。
「たまにでいい。わずかな時間でよい。わたしが顔を見せても、どうか嫌いにならないでおくれ」
笑顔なのに今にも泣きそうで、さすがに若者も罪悪感を覚えた。
娘が「邪魔したな。またそのうちに」と浮かび上がる。身を翻して去っていこうとするので、彼は思わず立ち上がった。
「守り神さま」
「な、なんだ?」
若者は、薄紫色の瞳からわずかに目を逸らした。
「あなたは土地神さまなのだから、行きたい場所へ赴けばいいのです。俺はここにいない日もあれば、仕事に追われる日もある。その時はお許しください。手が空けばお相手します。そんなふうにこちらの都合を押しつける俺が、お嫌いでなければ」
すると娘の表情がみるみる輝いた。
「本当か。いいや、たしかに聞いたぞ。神に誓ったのだから取り消すことは叶わぬ。ふふ、誰が嫌うものか。気難しい顔をして冷たい言葉を吐くくせに、お前は相手思いの優しい男だ。わたしを切り捨てられぬ弱い人間だ。しかしお前が強靭であったなら、わたしを見聞きできなかったであろう。その優しさと弱さが愛しいよ。ああ、口惜しい。声が届けば心も届くと思うたは、間違いであったわ」
遠慮なしに気持ちをぶつけられ、若者は顔が火照るのを感じた。
暗い部屋で良かった。もしかすると自分の姿は、彼女の輝きによって照らし出されているかもしれないが。
「そのあたりでお許し下さい」
「許すとは何をだ」
「いろいろ面映ゆく……」
「よく分からぬが、まぁいい。ではまた参る。明日……いや、今宵にでも」
「夜は寝かせて下さい」
娘はくすくす笑った。
「冗談だ」
嬉しそうに手を振ると、背中を向けてすうっと消えた。
若者は額に手を当て、大きくため息をついた。
結局は厄介ごとをしょいこんだ気がする。神に対して罰当たりな言い様だが、人付き合いすら気が乗らないのに、まして人外とは。
妖怪の中には、悪さをせず遊んでほしがるだけの者もいた。
だが応じると相手はどんどんつけ上がる。世界が違うのだ。それを忘れて距離を縮めれば災いの元となる。
あの守り神の娘にそう理解してもらうのは、難しそうだ。
一定の距離を保とう、と彼は結論づけた。
そのとき布団から身じろぎの気配がして、母親が目を覚ました。
「おや、お帰り。もう夕方かい」
「ただいま。気分はどう」
「昼まで頭が重かったけれど、今はだいぶ楽だよ。どれ、私も働かないと」
起きようとする相手を、彼は押し留めた。
「またそうやって無理をする。明日からがんばってくれればいいから」
「ありがとうね」
若者はうなずいて奥の間を出て行きかける。途中で足を止めて振り返った。
「母さん、ぐっすり眠れた?」
「ああ。お前が帰ってきたのも、まったく気付かなかった」
おそらく、先ほどまでのやり取りも知らないだろう。母には人外を見聞きする力がない。
彼は笑みを浮かべた。
「野菜を分けてもらったんだ。栄養つくよ」
「ありがたいねぇ。よろしく言っておいておくれ」
若者は襖を開けたままにしておき、板の間を横切って台所に下りた。
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