ゆきちがい

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ゆきちがい

 翌日の昼過ぎ、()り神の娘が姿を現した。 「ふふ、来てしまったぞ」  あまりにもにこにこしているので、若者はすげなく追い返す機会を逸した。  一刻後、彼は昨日の約束を深く後悔していた。  この神様は、いつになったら喋り疲れてくれるのだろう。相槌すら打たなくなった人間に対し、あれやこれやと話を続ける。  はたから見れば、若者は畑仕事に没頭していた。その実、言葉の滝に背中を打たれ、うんざりした表情を隠しきれない。いよいよ堪忍袋の緒が切れると感じ、彼は唐突に立ち上がった。  娘がびっくりして口をつぐませる。 「風の音を聞きます」 「分かった」  もちろんその必要はなく、静寂が欲しかっただけだ。  娘はしばらく大人しかったが、やがて辺りをきょろきょろ見回し、彼の様子を窺う。無言の要求に若者は気付かないふりをした。 「……のう、風は治まったようだ」 「そうですね」 「鳥が来るかの?」 「かもしれません」 「聞き逃しては大変だ」  背後が静かになった。  狩猟するわけでもないのに、その声に耳を澄ます意味があるものか。若者は呆れた。  次第に娘がそわそわしだす。それを感じて彼はまた苛々した。 「守り神さま」 「なんだ」  若者は振り返った。 「やはり仕事中はお相手できません。つまらない思いをさせるのも申し訳ないですし、別の機会にお願いできませんか」 「つまらなくないぞ。仕事を眺めるのも面白い。わたしのことは気にするな」  若者はわざと大きなため息をついた。 「お願いします」 「平気だと言うておるに……」  娘は拗ねた口調でつぶやき、ぱっと空に浮かび上がる。 「つまらないのはお前の頭だ。この生真面目、頑固者、無愛想、それからえぇと……」 「暇なら木の上で午睡でもなさって下さい」 「わたしを馬鹿にしておるだろう。その不遜な態度、いつまでも許されると思うな。助けを乞うても手を貸してやらぬからな」 「守り神さまにお願いするぐらいなら、自力で解決できます」 「なっ……。お前、わたしを見くびりおって」 「遊んでもらおうと、人の元へいそいそ来るぐらいですから、村の童と変わりません」  娘は拳をぶるぶる震わせて言葉を失った。  そろそろ天罰を食らうかもしれない、と若者が思ったところで、相手はすうっと息を吸い込んだ。 「そこまでこき下ろさずとも良かろう! 昨日、優しいと思うたは間違いであった。お前は意地悪だ。せっかく来たというに」 「俺は、『どうぞ来て下さい』とお願いしたわけではありません」  娘はふっと傷ついた面持ちになった。 「そうであった。所詮、わたしもまた人外。お前にとっては迷惑を被るばかりか」  そして苦しげな表情で訴えた。 「なぜ慰めの言葉などかけた。神の身で一喜一憂する姿が面白かったか。今日また現れて滑稽だったか。わたしが愚かだった。姿を見せぬ、声も聞かせぬ、それこそが正しい在り方だというに。しかしわたしは……」  彼女は、険しい顔で黙り込む若者を見て、薄紫色の瞳を潤ませる。 「解放してやるよ。嬉しいだろう」  かすかな笑みを浮かべると、そのまますうっと姿を消した。  若者はしばらく微動だにせず、やがて視線を落として歯ぎしりした。  どうしようもなく傷付けた。途中でまずいと焦りながら、撤回できなかった。  酷いことを言うつもりではなかった。けれど正直、あまり歩み寄ってほしくない。彼女は無邪気すぎる。そして無防備すぎる。  もう会うことはないかもしれない。  これでよかったのだ。そもそも世界が違うのだから。  冷静な部分は納得しているのに、なぜか胸がむかむかして、苛立ちはいや増した。 * * *  それから彼女を見ることはなかった。  家と畑を往復する日々で、神社へ行く用事もない。仮に赴いたところで、あの娘は出てこないだろう。  厄介ごとから解放された安堵がある。反して心の奥がざわつく。  畑仕事のさなか、物音が聞こえた気がして振り返る。そこには何もない。  辺りを見回して空を仰ぐ。何かを感じ取れるのではないかと、目を閉じ意識を集中させる。  けれど、意味のない行為だと気付き、思考を振り払って仕事に戻るのだった。
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