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ちゃぽん、という音とともに訪れた小さな波が、湯船の端へ広がって行く。湿気に曇った天井に遊んでいた光の輪が、それと同時に大きく左右に動いた。
せんぱぁい、という舌ったらずな声に、わたしは頭を湯船の縁に乗せたまま、わずかに目だけを動かした。巻き方が下手なのだろう。長い髪をタオルで包んだ早季子はひどく頭でっかちで、普段のおしゃれさが嘘のように間抜けな姿だった。
「ああ、もう。ここにいたんですか。あたし、露天風呂の方、探しちゃいましたよ」
「ごめんごめん。外のお湯、あたしにはちょっと熱すぎてさ」
「有里先輩は昔からぬるめの方がいいんですもんね。初めて参加した合宿で、風呂が熱すぎるって怒られたの、覚えてますよ」
そうだっけ、と言いながら、わたしは再び天井を見上げた。
天気がいいせいだろう。檜風呂の横にはめ込まれた巨大なガラス窓は、十一月も末だというのに開け放たれ、斜めに差し込んだ秋の日が湯面を明るく光らせている。人が湯船の中で動くたび、また湯から出入りするたび、そのきらめきが黒ずんだ天井に遊び、幾重にも光の輪を描いていた。
「合宿所のあの風呂、いまだに外焚きなの?」
「そうみたいですよ。あたしは引退して以来行ってないからわからないですけど。小池さんはこないだの合宿も顔出して、風呂焚き手伝ってきたみたいです」
「ふうん。あいつは相変わらずマメだねえ」
「暇なだけですよ」
と吐き捨て、顎先を湯につけた早季子は、大学の管弦楽サークルの三年後輩だ。四年生と一年生は普通、半年しか一緒に活動しないだけに、あまり仲良くなることはない。だが、ともに同じフルート担当だったせいだろう。私の卒業後も、早季子は頻繁に連絡を寄越し、ともに卒業して社会人となった後も、私の一年下のビオラ担当・小池佳樹を交えて、こうしてよく遊んでいる。
その小池はきっと今頃、さっさと風呂を上がり、外でタバコでもふかしているだろう。在学時代から恋人である早季子に振り回され続けている彼からすれば、三十分や一時間の待ち時間など、大したことではない。おかげでわたしもこうやってドライブついでに温泉に入り、ゆるい湯に手足がふやけるまで漬かっていられるわけだ。
創立何十年だかの伝統を誇るオーケストラ部に比べれば、我々のサークルは歴史も浅く、ほとんどお遊びみたいなものだ。それだけに卒業後も楽器を触り続ける者は皆無に近い中、小池だけは小さな貿易会社に勤めながら社会人オケに所属し、暇さえあれば後輩のところに顔を出している。
男の社会人三年目といえば、まさに頑張りどころ。ましてや学生時代からの恋人もいるとなれば、そろそろ結婚の二文字が頭にちらついてもいいはずだ。それにもかかわらず、わざわざ有給を取って合宿に参加し、風呂焚きから後輩のレッスンまで付き合う恋人は、早季子からすればひどく不甲斐ないのに違いない。
化粧を落としてもぱっちりと大きい目を見開き、
「だって、先輩。信じられます?」
と、早季子はいきなり声を尖らせた。
「こないだ、うちの両親がそろってこっちに遊びに来たんです。小池さんのことは以前から話しているし、ほら、あたしたちって付き合いだして、もう四年じゃないですか。親のほうも心配して、よかったら四人で食事でもって言ってくれたんです。だけど小池さんったら、なんやかんや言い訳して、結局、直前に断ってきたんですよ」
その話なら知っている。早季子が両親と気まずく食事をしていたであろうその時、わたしは一月も前から、「この日、暇ですか。飯でもどうですか」と誘ってきた小池と、駅裏の居酒屋でホルモン焼きをつついていたからだ。
わたしは早季子と仲がいいのと同じぐらい、小池とも仲がいい。それは別に男女の関係とか甘ったるいものではなく、姉と弟のような気さくさだ。
だから小池から食事に誘われたときも、ああいつもの食事の誘いか、としか思わなかった。だから酒がビールから日本酒に変わり、鉄板の上で焼いていたホルモンが真っ黒に焼け焦げ始めた頃、小池がおもむろに「実は今日、早季子の親が来ていて」と口を開いたときには、思わずぽかんとしてしまった。
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