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――えええ。いいの? あたしなんかとホルモン食べてて。
――いいんです。俺、まだ早季子と結婚する自信ないし。 ――……あんた、昔から自信ないってのが口癖だものねえ。
――そういうつもりはないんですけど。なんというか、俺、あまり結婚ってしたくないっていうか。
――そりゃまた、どうしてよ。早季子は期待していると思うよ。
「それでね、先輩」
甲高い早季子の声に、はっと我に返る。天井から落ちた冷たい水滴が、脳天にぴしゃりと当たった。
もしあの日、わたしが小池と一緒だったと知っても、早季子は別に我々の仲を疑いはしないだろう。ただ小池に対する腹立ちを募らせ、口喧嘩の一つも吹っかけるかもしれない。それが嫌というほどわかっているだけに、わたしはなんとしてもあの日のことを隠さねばならなかった。
「あたし、実は昨夜、小池さんに言ったんです。うちの両親は昔から仲良くって、あたしはあんな夫婦になるのが夢だって」ほとんど逆プロポーズである。そこまで早季子を思い切らせた小池に歯がゆさを感じながら、わたしは何気ない声をつくろった。
「小池、そうしたらなんて?」
「俺はあんまり結婚ってしたくないんだ、ですって!」
あ――あいつっ、と叫びだしたいのを、わたしはかろうじて堪えた。
普段はおとなしく、誰にも気を使う小池は、一面では驚くほど頑固だ。長い付き合いでそれはよくよくわかっていたが、よりにもよってそんな本心を早季子に言う馬鹿がいるか。
出来ることであれば、今すぐ外に飛び出し、何本目かのタバコを吸っているであろう小池の頭を叩いて、説教の一つもしてやりたい。しかしそんな無茶が出来ないのが、世の女というものだ。風呂から上がり、髪を乾かし、化粧をしている間に、膨れ上がった怒りはどんどん小さくなる。そして最後にはこつんと小さな息が一つ、胸の底に落ち、それが次第に幾つも降り積もり、いつか体中を不信感でいっぱいにしてしまうのだ。
「照れてそう言っちゃっただけだよ。気にしないほうがいいんじゃないかな」
「だけど、当の彼女にそんなこと言いますか?あたしは学生の頃からずっと、結婚は早めのほうがいいって言ってたんですよ。それなのに今更――」
と興奮した声でしゃべりかけ、あっ、と早季子は息を呑んだ。
「ご、ごめんなさい、先輩。あたし、先輩のこともかまわずに自分のことばっかり」
「あ――ああ、うん。まあ、いいよ、別に」
人付き合いの苦手なわたしが、早季子といまだに関わっていられるのはこういうところだ。服装も化粧も派手で、一見、傍若無人とも見える早季子は、案外、周囲に対する心配りが細かい。
今日のドライブだっておそらくは、ここのところわたしが塞ぎこんでいると聞いて計画してくれたものだろう。それにここ最近の弁護士とのやりとりに比べれば、早季子の愚痴の一つや二つ、大したことではなかった。
「でも……結構、大変なんでしょ、今、先輩のおうち」
「うん。でもまあ、ピークは超えたかな。父も最初はごねてたけど、弁護士さんに入ってもらったおかげもあって、いまは不倫相手とうまくやってるようだし。母もあたしも、出て行ってもらえてむしろほっとしているよ」
「だけど、すごいですよねえ。去年だっけ、遊びに行かせてもらったときにご挨拶しましたけど、あの時で先輩のお父さんって定年超えてましたよね」
「そう。今年で六十八歳。それで相手の女性は、あたしと五つしか変わらないんだからねえ。まあ、色々家族ってものについて考えるいい機会になったかな」
会社の同僚・上司、ご近所の家々、両親の友人、そして親戚。もはや数え切れぬほど多くの人たちに、この春からの半年間の騒動について報告せねばならなかっただけに、両親の離婚について語るのはそう難しいことではない。口先だけでことの顛末を話して聞かせながら、わたしはまた外でタバコを吸う小池のことを考えた。
真っ黒に焦げた、ホルモン。バターだけが残ったホイル焼き。
わたしは知っている。もしあのとき、わたしが両親の離婚で翻弄されていなければ、小池は早季子と結婚したくない理由を口にしなかっただろう。
長い髪に大きな目、男であれば誰でも好意を抱くに違いない、小さく可愛い早季子。そんな彼女ですら知らない小池の内面を、わたしだけが知っている。その事実が今更胸に迫り、わたしはこっそりと息をついた。
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