あかすり

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――うちの母親って、俺と兄貴が中学生のときに家出して、そのまま行方不明なんすよ。  あのとき小池はそう言って、ジョッキの底にわずかに残っていたビールを飲み干した。わたしの手元のチューハイのグラスがまだ半分以上残っているのをちらりと見てから、 ――男がいたらしいんですよね。で、そいつと駆け落ちした、と。  と、「そのチューハイ、薄そうですね」とでも言うような、つまらなさそうな声で付け加えた。 ――ああ、そうだったんだ。それはお父様もあんたも大変だったねえ。  かつてであれば、こんな慰めはすぐには出てこなかっただろう。しかし今であれば、よく分かる。  最近姿をお見かけしませんがと尋ねてくる、気のいいご近所さん。お父さん元気?、と言う古くからの昔なじみ。親切で優しく、悪意などこれっぽっちもない人々に、「実は父は不倫相手と暮らすため、家を出て行きまして」と告げることが、どれだけ気苦労が多いことか。ましてや母親が中学生の子どもを置いて、となれば世の中の目はどれほど同情と好奇に満ちていたことか。  家族。なんの疑念もなく、温かいもの、優しいものと教えられてきたその生活単位がいかに欺瞞に満ちていたものかと気付いた瞬間から、世の中を見る目は大きく変わる。親の離婚に接した子どもとそうでない子どもの間には、何者にも渡れぬ深い深い川が流れているのだ。 ――まあ、うちの母親ってけっこうヒステリックな人だったんで、俺と兄貴は心のどこかでほっとした部分もありましたけどね。学校でも噂にはされたけど、それも長くは続かなかったし。けどまあ、親父は大変だっただろうなあ。 ――あのさ、小池。すごく失礼なこと言ってもいい? ――いいですよ、どうぞ。 ――怒らない? ――怒りませんってば。 ――うん、あのさ……お母さまって、そのまま帰って来られていないんだよね。あんたが中学生の頃となると、十数年もの間。 ――ええ。 ――――よかったねえ。戻ってこなくて。 ――……そうっすね。この年になると、本当にそう思います。  誰かと関係を持つということは、苦しみの始まりだ。ましてや社会から無条件に愛すべきと教え込まれる親ともなれば、その苦しみは他の何者にも劣るものではない。  父の数年来の不倫が発覚し、彼がわたしや母より不倫相手との暮らしを選んだとき、わたしは親が存在する苦しみというものを始めて知った。同様に小池はきっと、自分たちを裏切った母親が姿を消したままであることに、言い知れぬ安堵を覚えているのに違いない。  それでも血のつながった親なのに、と我々を責めることはたやすい。しかしそれは温かな家庭に育ち、親とそれなりに揉めながらも、心の底で信頼しあえた幸せな人間が、家庭とはそんなものという思い込みによって言うセリフだ。ぬくぬくと温かい家に育った彼らは、世の中に子どもを、配偶者を裏切って平気な人間がいるということを、心の底では信じていない。そんなひどい親は映画やテレビドラマの中にしか存在しないと信じ、自分の価値観だけで他人を決めつけているのだ。 ――だからですね、先輩。 ――うん。 ――俺、結婚って苦手なんすよ。なんというか……またいなくなってしまうんじゃないかと思って。 「ねえねえ、先輩」  ぱしゃぱしゃと早季子が湯を叩く。顔に跳ね飛んだ湯を拭いながら、「なあに」とわたしは動揺を隠して言った。 「垢すり、垢すりしましょうよ。さっきのぞいたら、待ち時間なしって書いてあったんです」「嫌だよ。それに、多分小池はもう上がって、外であたしたちのこと待ってるよ」 「いいんですよ、小池さんなんか待たしときゃ。あたし、ちょっと、申し込んできます」  言うが早いか、早季子は風呂から飛び出し、マッサージ受付のある入り口へと早足で向かった。  真っ白なその肌はいかにもなめらかかつ柔らかで、ともすればそのまま湯気の中に溶けてしまいそうだ。  あたしはいいのに、とその背に声をかけようとして、ため息をついて天井を仰ぐ。早季子が湯をかき回して出て行ったせいで、天井に遊ぶ光はただのぼんやりした色むらに変わっていた。  早季子はきっと早季子なりのやりかたで、わたしを元気付けようとしてくれているのだ。いささか時期はずれのドライブといい、唐突な垢すりへの誘いといい、それは皆少々見当外れではあるが、それでも彼女なりの心配りであることに変わりはない。 「垢すり、か――」  無邪気にわたしを慕ってくれる早季子。しかしさすがの彼女も、あのホルモン焼き屋を出たわたしと小池の姿を知ったなら、さすがに平静ではいられぬだろう。  あの日、互いの親の悪口を言いながら散々飲んだくれ、ついに「閉店ですから」と店を追い出された我々は、頭上近くまで上った真ん丸な月を眺めながら、駅に向かう道をふらふらと歩き出した。
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