あかすり

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――ねえ、コンビニ。コンビニ、寄ろうよ、小池。 ――ええーっ。まだ飲むんですか。 ――違うよ。アイス食べたいの。  小池は甘い物が苦手である。冷凍ケースを覗き込むわたしの後ろを苦笑して通り過ぎると、ビールのロング缶を三本、籠に入れた。 ――そんなに買って、どうするの。 ――駅のロータリーのベンチで飲みましょうよ。月も綺麗だったし。  言いながら、わたしの手からハーゲンダッツのアイスクリームを取り上げる。冷凍ケースを長い間かきまわしていたせいだろう。わずかに触れた手がひどく熱く感じられた。  終電まで間はあるはずだが、駅はがらんと静まり返り、古びたワゴン車が一台、ロータリーの隅に人待ち顔で停まっていた。街灯の真下にあるベンチに座り、わたしは先ほどの小池の手のぬくもりを追い払うように、がさがさとビニール袋を漁った。 ――こんなところで飲むなんて、久しぶり。学生時代はよくやったよねえ。公園のベンチとか、河原とか。 ――俺はこないだ、やりましたよ。合宿所に顔出したとき、現役の奴らと旅館の駐車場で朝まで飲んだくれました。  暇だねえ、と言いながら、少し柔らかくなったアイスクリームに匙を突っ込む。小池は一人ビールを飲みながら、「そうですかねえ」と首をひねった。 ――暇だよ。早季子、怒ったでしょう。 ――まあ、確かに怒ってましたねえ。  とりとめのない話をしているうちに、ビールが一本、空になる。それに合わせるようにわたしがアイスクリームの最後の一口を食べようとしたとき、 ――あ、それ、くださいよ。 と、小池が言った。 ――なあに、食べるの。だったらもう一個買えばよかった。 ――いや、別にアイスが食いたいわけじゃないんですけどね。甘いもの、苦手だし。ただ先輩がひどくうまそうに食ってるから、ちょっとだけ欲しくなって。  指先が先ほどの熱を思い出したように熱くなる。それに気付かぬふりで、わたしは溶けかけのアイスクリームを乗せた匙を、そのまま小池に向けた。 ――なによ、それ。本当にちょっとだけしかないけどいいの。 ん、という声とともに、小池が口を開けて、アイスクリームを迎え入れる。匙がぱくりと挟まれる。わずかな圧力のかかった唇の間から匙を引き抜きながら、わたしはふと目の前の男といつまでもこのままでいられたら、と思った。 彼が結婚するのが嫌だとか、わたしがこの男が好きだとか、そういうことではない。そんな感情は、これっぽっちもない。  子どもを持つ女と子どもを持たない女の間には、深い川があるだろう。男と女の間にも、異性を知った者と知らぬ者の間にも、同様の川はあるのに違いない。  そういう意味で言えば、信頼する存在であるはずの親に裏切られ、他人というものを信じてはならぬと気づいた小池とわたしは、ともに同じ岸辺に立っている。対岸にいる早季子は、こちらにいるわたしたちの姿が見えない。  早季子はそもそも、川の存在なぞ知らぬだろう。わたしと小池が同じ岸に立っているなどとも、思いもよらぬだろう。ただわたしと小池だけが、それを知っている。  とはいえ、いかなる川があろうとも、そのまま立ち止まっていることは許されない。 わたしにどれだけ本音を吐露しようとも、小池はきっといつか自分の心の痛みを押さえ、早季子と結婚する。わたしもいずれは恋人を見つけ、肌を重ね、妻に、母になるのに違いない。そうすればわたしにも小池にも、いま、足先を轟々と音を立てて流れる川は見えなくなる。いや、見えないふりをすることになる。  今だけ。そう今だけ、わたしたちは同じ場所に立ちすくみ、互いの傷を舐めあっていられるのだ。 ――ねえ、小池。 ――なんですか。 ――結婚しなよ、早季子と。  返事の代わりに、新たな缶ビールを開けるぷしゅっという音が返ってくる。わたしは空になったアイスクリームのカップに匙を放り込んだ。 かんかんかん、という踏み切りの音が遠くに聞こえる。今から走れば、終電には間に合うはずだ。
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