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わたしには小池の傷はよく分かる。だからこそ、わたしたちはこのままでいるわけにはいかない。
この岸辺にともに立ち止まれれば、我々はある意味では幸せだろう。しかし早季子がそんな小池に結婚を迫るように、悪意のない幸せな人々は、身近な人に斬り付けられた子どもの傷を許さない。その都度襲われる痛みに耐えるには、さっと川を渡ってしまうしかないのだ。
――そのときは、先輩、スピーチしてくれますか。
――おお、やってあげるよ。スピーチでも、司会でも。言ってしまってから、自分が人前で話すのがどれだけ下手であるかを思い出したが、まあいいか、と自分に言い聞かせ、わたしは近づいてくる電車の音に耳を澄ませた。 ――電車、来ちゃいましたね。
――うん。
光の連なりのような電車がまっすぐやってきて、またまっすぐ去って行く。小池は二本目のビールをごくごくと飲み干すと、そのままの勢いで三本目を開けた。缶を片手に持ったまま、よいしょ、と勢いをつけて立ち上がった。
――しかたがない。歩きますかね。先輩、送っていきますよ。
――ビール飲みながら? 大丈夫かねえ。
――大して飲んでないから平気ですよ。一時間も歩きゃ着くでしょ。で、先輩、家についたら、自転車貸して下さいよ。俺、それで帰るから。
――飲酒運転かあ。捕まらないようにしなよ。
ゴミ箱に空いた缶やアイスカップをゴミ箱に入れて立ち上がる。片手にビール、片手をポケットに入れ、小池はふらふらと道を歩き出した。
いつしか指先がひどく冷たくなっていることに気づき、わたしも両手を薄いコートのポケットに入れる。そんなわたしを振り返り、小池が「先輩」と言った。
――あの、もし寒かったら……。
――なに。
――……いいや、いいです。なんでもないです。
手にしたビールをごくりと飲み、小池は妙に背を丸めて歩き出した。
一時間あまりの道中、小池は何故か無言であった。それが不思議に哀しげに見え、わたしは黙々とその後をついて歩いた。
なにか小池の機嫌を損ねるようなことを言ったのだろうか。だがもしそうだとすれば、わざわざわたしをマンションまで送ろうとも思わないはずだ。冷えた指をポケットの中で伸ばしたり丸めたりしながら、わたしは小池の薄い背をずっと見つめ続けた。 小池に貸した自転車は、三日後、勝手にマンションの駐輪場に戻されていた。鍵はポストに放り込まれていた。何も言わず、メールもラインも寄越さないその態度に、わたしは早季子同様、自分もまた小池を傷つけてしまったのだと感じずにはいられなかった。
そう、結婚しなよ、とわたしが言ったとき、小池は困ったようにうなずいた。しかしあれは親の離婚に怒り、戸惑いながら、それでも結婚という言葉を口に出来るわたしへの当惑だったのではないか。
大人になってから身近な人に斬り付けられたわたしの傷は、小池のそれと同種のものではあったが、その大きさは、痛みはまったく異なっていたのだ。そして鈍感にもわたしは、その事実にまったく気づいていなかったのだ。
小池はわたしを同じ岸辺に立つ人間だと感じつつも、わたしがさっさと川岸を渡ろうとしていることに、大きな哀しみを抱いたのだろう。あの一晩で近くなった小池とわたしの距離。それは同時に、もはや手が届かないほど遠くなってしまったのだ。
きっと小池は今、そろそろ十本以上になった煙草を数えながら、わたしと早季子を待っているだろう。端っから川の存在なぞ知らぬ恋人と、同じ川岸に立ちながらもどうにか対岸へと渡ろうとしているわたし。たった一人、中学生の頃から変わらぬ岸に取り残された自分を顧みながら、それでも我々を切り捨てられぬ自分に悶々としているはずだ。
「せんぱぁい、垢すり、予約しました。三十分コースでいいですか」
早季子が濡れた床をぴしゃぴしゃ鳴らしながら、小走りに戻ってくる。わたしは、ん、と呟いて、そちらを振り返った。
「ねえ、早季子。どうせなら、一時間コースにしようよ。あたしが奢ってあげるから」
「えっ」
早季子が驚いたように目を瞬かせ、湯船の上にかかっている時計を見上げる。一瞬、困ったような表情になってから、すぐに「そうですね」と笑ってうなずいた。「いいや。小池さん、もうしばらく待たせちゃおう。じゃあ、変更してきます」
再び外に出てゆく早季子を見送り、私はもう一度光の輪が遊ぶ天井を見上げた。
早季子に結婚したくないと言った小池は、それでも早季子と別れることができない。もっとも身近な人に裏切られた傷が大きければ大きいほど、彼は恋人に、先輩であるわたしにすがりつくことをやめられないのだ。
轟々と流れる深い川。そのあちら側でぽつりとたたずむ小池は、必死に川岸のこちら側に手を振り、声をかけ続ける。いまだにサークルに顔を出し、社会人オケに出入りし――そして早季子と付き合い続け、わたしを遊びに誘う。そんな小池がたやすく川を超えることが出来るとは思わない。しかし、いつか。きっと。早季子がそれまで待てなかったとしても、いつか誰かが小池をあの川岸から引っ張り出してくれるはずだ。
だからこそ今、わたしは小池を待たせる。早季子を、わたしをじりじりと待ちながら、小池は自分が立つ川岸の孤独に気づけばいい。それが、わたしを突き放した小池に対する罰だ。「一時間コースだとこれからすぐですってー。せんぱい、行きましょー」
早季子が入口でぶんぶんと手を振っている。わかった、と返しながら、わたしはぬるい湯の表面をぴしゃりと片手で叩いた。小さな飛沫が外からの日差しを受け、一瞬だけ小さな虹を作る。それが小池の立つ岸にかかる架け橋のように、わたしには見えた。
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