なかよし

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「なあなあ、昨日、俺、どうやって帰ってきたんだっけ」  朝は毎日、戦争だ。食の細い康太をなだめて、トーストを半分どうにか食べさせながら、幼稚園に持たせるお弁当を作り、寝起きの悪い夫に朝食代わりのおにぎりを二つ手渡す。しかも昨夜、べろべろに酔っぱらって迎えに行くはめになった夫は、今朝はまだ酒の匂いを漂わせ、しかもどれだけあたしに迷惑をかけたか覚えていないときた。 「あたしが車に迎えに行ったんだけど。覚えてないわけ」  三歳の康太を一人置いていくことも出来ず、なだめすかして車に乗せ、一時間のドライブの果て、安っぽいチェーン系居酒屋の前まで迎えに行った。このチェーン店、うちの駅前にもあるだろうに、なんでわざわざこんな離れたターミナル駅で飲むのだ、と腹が立ったことまで思い出し、ついつい声が尖った。 「それが覚えてないんだよなあ。いや、岡野と飲みに行ったことまでは覚えているんだけどさ。……あれ、俺、岡野に金、払ったんだろうか」 「知らないわよ、あとで聞いてみたらいいじゃない」  返事代わりに響いてきたのは、洗面所からの水音だ。じじじじじ、という髭剃りの音に、別に返事なんか求められていなかったのだと気づき、あたしはかつお節を混ぜ込んだおにぎりを握る手にぎりぎりと力を込めた。 「ところで、パパ。今日はなるべく早く帰ってきてよ。お義姉さんたち、四時には来るんだって。あたし一人じゃ、大変だから」 「四時ぃ? 早いよなあ。花火が始まるのは、七時からだぜ」 「知らないわよ、そんなこと」  夫の義姉一家がこのマンションに遊びに来るのは、ちょうど一年前からの約束だ。こんな小さな町には不釣り合いなほどにぎやかな花火大会。その会場の河原を一望できるマンションの七階の我が家を、義姉一家はどうも自分たちだけの特等席だと思っているらしい。  義姉に悪気はないのだ。ただ、康太にお年玉とクリスマスプレゼントと誕生日祝いを欠かさず送るよう計らってくれるのは、義姉の三歳年上の連れ合いであって、義姉でないことを、あたしはよおく知っている。 「ほら、うちの子は女の子だから。こういう活発な男の子はうらやましいなあ」 と頭を撫でてくれるのも、やっぱり義兄の方だ。  わかっている。義姉は今年六歳になる一人娘がかわいくてならず、娘のためであればどんな無理もしてしまうだけ。年に一度のこの花火も、あたしには姪にあたる彼女が楽しみにしているから、というのが義姉の言い訳なのだ。 「とにかく早く帰ってきてよ。それに六時を過ぎると、マンションの前の道も封鎖されて通れなくなるから」  わかった、わかった、と生返事をしていく背には、これっぽちの緊張もない。ばたんとドアが閉まる音がして、ふっとダイニングテーブルの上に目をやれば、家の鍵が置きっぱなしになっている。大きなクローバーのキーホルダーは、夫のものだ。どうせ帰宅時にはあたしがいるからと、安心しきって忘れていったに違いない。 溜め息をついて、康太の食事を終えさせると、あたしはもう半分のトーストを慌ただしく口に押し込んだ。 「はい、歯磨きするよ。もう出かけるからね」  現在、あたしが働いているのは、結婚前にも籍を置いていた総合会計事務所。大先生と若先生を中心に、三人の税理士と二人の会計士が所属しており、先生方を支える四人の事務員のうちもっともの若手があたしだ。  電動自転車で康太を幼稚園に送り、そのまま事務所に駆け込む。夏は比較的仕事が少ない時期だけに、普段は始業時間五分前になっても事務所内はどこかのんびりしているのだが、珍しく今日は若先生が電話機の前に座り込み、困り切った顔で受話器を握りしめている。 「ですけどね。それはやはりこちらとしても対応しかねるのですよ。そういうことであれば、やはり顧問の弁護士先生に――」  どうしました、と目顔で隣席の事務員に尋ねようとした途端、背後のソファでコーヒーを飲んでいた大先生が「困ったよねえ」と間延びした声で呟いた。  大先生は御年、七十六歳。この事務所を一代で立ち上げたやり手だけに、息子である若先生の困惑顔をどこか楽しんでいるようにも見えた。 「どうしたんです」 「ほら、うちが税理見ている〇〇印刷さん。支払いの件で取引先とトラブって、それであいつのところに泣きついてきたみたいだよ」  聞けば、大口の印刷を頼まれたものの、機械故障を口実に先の支払いを求め、それが元でトラブルになっていると いう。 「そういうトラブルは、若先生のお仕事じゃないですねえ」 「僕もそう思うし、あいつもさっきからそう言っているんだけどねえ。〇〇印刷さんとしては、自分たちがトラブルを起こしていると思いたくないんでしょ」  すっかり冷めきっているコーヒーをおいしそうに飲み干し、「困ったねえ」と大先生はもう一度繰り返した。 「こういう仕事しているとさ。僕たちの仕事じゃないっていうのに、トラブルを持ち込んでくる人がいるからさ。さっさと弁護士先生のところに言ってくれれば、解決も早いってのに。人間、自分たちが争いとか喧嘩のただなかにいるっていうのを、どうにも認めたくない傾向があるんだろうねえ」 「そういう……ものなんですか」 「そういうものだよ」  うんうんとうなずく大先生と、電話口の相手に向かって苦虫を噛み潰したような顔をしている若先生を見比べる。 確かにそういうものなのかもしれない、と思ったのは、あと数時間後にやってくるであろう義姉の顔がふっと思い出されたからだ。  あたしと義姉は、決して仲が悪いわけではない。しかしだからといって仲良しかと言えば、絶対に違うと断言できる。  これで傍目にもはっきりと分かるほどの不仲であれば、花火見物だってきっぱり断ることが出来るだろう。問題はお互いが「まあまあ我慢できる」程度の関係であるということだ。  若先生の電話は、それからたっぷり一時間以上続き、昼を過ぎた頃にもまた、同じ会社から電話がかかってきた。勘弁してほしいなあ、とばかり眉を寄せて受話器を握る若先生の隣で、 「すみません。あたし、今日はそろそろ」  と隣の同僚に頭を下げた。
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