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[1]嗚呼
「そんな…、そんな…。
嗚呼!」
それは突然、全世界に対して始まりを告げた。
終わりの始まりを、である。
全世界に拡がったウイルス性疾患が更に拡大していった。
アジアやヨーロッパへ、そしてアメリカへ。
未知のウイルスで脳に作用する事は判明した。
その時点で医療用調査チームが派遣される事となる。
地方ではあるが脳神経系医療の病院を経営している私。
政府の要請で脳神経系の部門でチームに加わる事になった。
緊急招集が掛かったのが先週、現地に向かう為にである。
慌てて荷物を準備して本日早朝に自宅を出発。
現在の時刻、予定では機上の人となっている筈であったのに。
未だに空港の搭乗手続きカウンターにいる。
「緊急の渡航制限って…本当なんですか?」
「ええ、そう間違いありません。
本当に申し訳御座いません。」
そのやり取りをしている最中に関係機関から連絡が届く。
相手国の突然の発表で対応が後手に回っている感じも止むを得ない。
取り敢えず自宅待機という事になった。
また明日から病院の診察に加わる事になる様だ。
だがこの大量の渡航用の荷物…。
これを引き摺って今来た道を戻らなければならないのか…。
そう思って空港の最寄り駅へのバス乗り場とへと向かう。
そこで目にしたのは同じ境遇の疲れ切った同志の大群であった。
タクシー乗り場には更なる行列が伸びていたのである。
そして院長は叫んだ。
主人が明日から海外出張で絶好のチャンスとなったのに。
娘の家庭教師からの返事が遅い。
彼女は少し苛立っていた。
主人は脳神経外科の病院を経営している、よって生活は裕福である。
だけど彼は人の心には全く詳しくなかった。
彼女の気持ちには殆ど関心を示さない。
娘についても成長するに連れ無頓着になっていった。
彼女は離婚を考える事もある。
慰謝料と養育費を計算した事もあった。
娘の家庭教師との不倫がバレなければ親権も持てそうだ。
彼と一緒になるつもりではない。
それは娘に対しても裏切る事になってしまうからである。
もう少しだけ心を通わせられる生活を望んでいただけなのだ。
「全ては同時に手に入らないものなのね…。」
娘が産まれてから、よく自分の将来と幸福について考えていた。
最善の方法が読み取れていなかった為である。
娘の家庭教師は自分から誘惑した。
有名な一流大学の大学院生…それでも簡単だった。
彼女は、それが少し残念で悲しかったのである。
人間性は一流じゃなかったのね…。
そう思い出した時に彼からの返事がメールされた。
『今日はカノジョの家に行くのですいません』
彼女は、その『カノジョ』の文字を見た途端に激高した。
それが自分の事を指していなかったからである。
じゃあ私の存在意義って何なの…?
そして彼女は叫んだ。
少女は教室での突然の発表に動揺していた。
それは他の生徒も同様だった。
先生も、どう話せば良いのか困っている様だ。
「…という訳で来週から学校はお休みになります。
そのまま春休みに入るので、次に皆に会うのは新学期ね。」
「ええ~!」
「ういるすって何~?」
それは政府の要請を受けての地方時自体の決断である。
父兄に対しては何の説明もなされてはいない一方的な発表であった。
少女は母親と一緒の時間が長くなるのが苦痛だと思った。
自分が好きなパパをママは余り好きじゃないみたいだからだ。
そして何より学校が大好きなので悲しさは尋常ではない。
「春休みが早くなったと思えばいいんだよ~。」
「そうだね、それなら公園で集まればいいしね。」
子供は状況に対しての順応が早い。
多くの男子生徒はゲームが沢山出来るので喜んでさえいた。
きんこんかんこん、きんこんかんこん。
終業のチャイムである。
生徒達は来週からの休みにウキウキしていた…少女を覗いて。
少女は思い足取りで校門を出た。
それから校舎を振り返って見る、ふと悲しみが込み上げてきた。
そして少女は叫んだ。
彼は大学の同級生が主催する合コンで好みの女性徒と仲良くなった。
そして早速デートの約束を取り付ける事が出来た。
それが本日、今日である。
それなのに一昨日から不倫相手からの誘いの連絡が頻繁に入る。
無視していたら、その頻度は増える一方。
彼は少し焦り始めていた。
「ちぇっ…何だってんだろう。」
普段なら不倫の相手に飛んで行く所ではある。
だが今日の夜はデートなのだ。
しかも自分の好みのタイプの女子大生。
昼間に他の女性と会う気は起きなかった。
彼は思い切ってメールにカノジョの文字を入れた。
不倫なのだから、それで諦めるだろうと高を括ったのだ。
だがしかし、それは逆効果であった。
会えないのであれば大学に不倫の事実を伝える。
彼女からのから返信は簡潔に言って、そんな内容のものであった。
彼は酷く動揺した。
せっかく一流の大学に入ったのだ。
自分の将来を、こんな事で木っ端微塵にされたくはなかった。
そして彼は叫んだ。
夜勤最後の巡回を終えた看護師はナース・ステーションへと戻った。
院長が海外出張の為に副院長が在勤する。
彼の方が院長よりも形式に細かい人物であった。
その為に書類の不備や資料の放置は厳禁である。
つまり退勤時刻までにしなければならない事が山積みであった。
「はぁ…、これから疲れるなぁ…。」
副院長は院長よりも実力を持っていた。
だから実質この病院を廻しているのは副院長である。
普段は研究施設に常勤しているので人物像も不明。
ただ医療スタッフからの信頼は厚く彼の指示は絶対でもあった。
難易度が高いオペを幾度も成功させた噂は伝わっている。
「私、失敗しないのでぇ。」
看護師は自身の呟いた独り言に自分で笑ってしまった。
休憩中に見たニュースはウイルス対策の失敗で大騒ぎであった。
一通り業務を終えて帰宅する準備を始めた。
欠伸をしながら明るくなってきた窓の外に目を向けた。
そして視線を窓の下に向けて驚愕した。
病院の駐車場が開院を待つ人で溢れていたのである。
こんな事は勤務して以来、初の出来事であった。
「なっ…何でぇ?」
休憩所のテレビを点けてみる。
未知のウイルスが脳神経系に関わる為に検査出来る病院が限定される。
それで検査希望者が押し寄せてきているという訳らしい。
初期症状は風邪そのものだから、どうせ殆どの患者は風邪だろう。
まだ国内感染者は確認されていない。
だがそれは検査を受けていないだけなのかも知れない。
その時ステーションの電話が鳴った。
驚いた看護師は慌てて受話器を取る。
声の主は副院長であった。
「引継ぎが出勤するまでに、して欲しい仕事がある。
医院を開けて客を待合室に入れて検温して欲しい。
7度5分に満たない患者には感冒薬を渡して返しなさい。
薬剤師は仮眠している筈だから起こして。」
全てお見通しで準備されているのか…。
看護師は諦めて検温の準備を始めた。
一階まで降りて待合室の明かりを点ける。
途端に外が騒がしくなった。
あの人数を私が検温しなくちゃならないの…?
ワンタッチで体温が測れるから良い様なものの…。
事情を聴いた薬剤師も起床してきていた。
ドアのカーテンを開けて驚いた。
先程よりも明らかに多くの人で溢れていたからである。
そして看護師は叫んだ。
「ふぅ…。」
大学院生に送ったメールが功を奏した様である。
彼から向かうとの連絡が入った。
少し落ち着いた彼女は、自身の送ったメールに後悔していた。
まるで脅迫して関係の持続を迫ったかの様だからだ。
彼女は彼が好きではある。
ただ離婚して全てを犠牲に出来る程の相手ではなかった。
お互いに自分の都合の良い様に利用しあっているだけだった。
そして、お互いにその事を充分に理解してもいた。
シャワーを浴びて食卓に花を飾った。
気持ちを切り替えて気分よく彼を迎えたい。
「主人も娘もいない時間は有効に使わなくちゃ…。」
彼女が気分を独身時代に戻している時にインターホンが鳴る。
そそくさとドアを開けて大学院生を招き入れた。
「ありがとう…絶対に来てくれると思ってたわ。」
「うん、でも今日で最後にしたいんだけど…。
本当にカノジョが出来たんだってば。」
キッチンで珈琲を淹れている彼女の動きが止まる。
信じられないといった表情を彼に向けたまま凍りついた。
そして彼女は叫んだ。
やっとの思いで院長はタクシーに乗車出来た。
車内で聞いているニュースは不穏な事ばかりである。
どうやら未知のウイルスは脳の神経に作用するらしい。
感染系の疾患なら、これはかなり厄介で脅威になりそうだ…。
だが院長は自身の経営する病院のレベルに自信を持っていた。
個体間の脳移植ですら出来る技術と設備を誇っている。
海外出張の中止を妻に知らせる前に状況を確認したかった。
その為に一度、病院に寄って事態を掌握しよう。
彼は行き先を病院に指定していた。
タクシーが自身の病院に近付いた時に異様な光景が目に入る。
病院の小さな駐車場が人で溢れていたのである。
彼は動揺して病院に連絡を入れた。
細かい経緯は省略して自宅に戻る事だけを伝えたのである。
副院長からはウイルス関係医療の詳細な実態を知らされた。
「院長、不要不急の外出は控えて下さい。
これからは不眠不休になるでしょうから。」
こんな副院長の言葉も、とてもオーバーには聞こえない。
先刻の病院の人出を見れば、それは明らかだからだ。
不眠不休…。
取り敢えず休もうと自宅へと進路を変えて貰った。
そして院長は叫んだ。
泣きながら金切声を上げた彼女に大学院生は動揺した。
彼は彼女を抱きしめて落ち着かせようとした。
だが彼女は振り解いて彼を叩き続ける。
「貴方にも御主人がいらっしゃるじゃないですか。
立場は二人共、変わらない。」
「そうだけど…、そうだけど…。」
「家庭教師も続けたいし、何なら僕等の関係だって…。」
「…本当に?」
「勿論ですよ。」
彼は彼女を抱きしめる事に成功した。
これでこの場をやり過ごせれば後は知らんぷりすればいい。
その時、彼のスマホから着信音がする。
彼女は素早くポケットからスマホを抜き取って身体を離した。
画面には笑顔の女子大生の写真。
若くて輝いていて打算とは無縁の様な表情をしていた。
「可愛いわね…良い子みたい。」
彼女の声は落ち着いたトーンであった。
それに安心した彼は返事をした。
「そうでしょう?」
その言葉に彼女の中の何かが弾けてしまった。
正確には彼女の脳に寄生していた何かが作用したのである。
直ぐにスマホを握り締めたままベランダへと飛び出す。
そして五階から虚空へと飛んでいった。
止めようとしたが間に合わなかった彼は膝から崩れた。
そして彼は叫んだ。
丁度ドアを開けた院長は二人の行動を見てしまった。
そして大学院生の横を走り抜けてベランダから見下ろした。
そこには動かなくなった妻が横たわっていた。
そして院長は叫んだ。
学校から帰宅してきた少女は自宅近くに人だかりを見る。
その輪の中心に自分のママが寝かされていた。
血まみれで、まるで鬼の様な表情で。
…遠くから救急車のサイレンが聴こえてくる。
そして少女は叫んだ。
大学院生と格闘になった院長は馬乗りされて殴られ続けた。
だが遠ざかる意識の中で、家族の写真立てを握る。
ガラス製のそれで大学院生の頭部に一撃を加えた。
真っ赤な飛沫が飛び散った。
彼は院長にもたれかかって動かなくなる。
院長も意識を失った…。
夢の中で院長は家族で写真を撮っていた。
仕上がった写真に妻が娘と写真立てを選んでくれた。
ガラス製で自立出来て綺麗でオシャレだった。
まるで彼の自慢の妻と娘の様に。
そして院長は叫んだ、その夢の終わりに。
叫びながら意識を回復した院長に周囲は安堵した。
ベッドの周囲には娘もいた。
あの出来事から、どれ位の時間が過ぎたのか…?
家内の葬儀は…?
「もう大丈夫ですよ。」
副院長が優しく声を掛けてくれた。
彼が執刀してくれたから助かったのだろう。
院長は両目を開けて身体を起こした。
「ありがとう…、何が何だか…?」
「それは世界の状況も一緒です。
政府の要請で最高の治療が施せました。」
「政府の…?」
「脳神経科医は今や国賓級の待遇ですから。
一人の犠牲者も出せません。」
「…そうだったのか。」
何だか聴覚に異常が在るみたいだ。
自分の声が聞き取りずらい。
娘の表情も嬉しそうではなく曇ったままである。
副院長に促された看護師が姿見の鏡を院長に向けた。
「なっ…!」
そこには妻を追い詰めた大学院生の姿が見えたのである。
だがそれは院長の言葉を発していた。
副院長が簡潔に説明する。
「脳移植です、これしか救える方法が無かった。
もはや院長ご自身が国家機密なのですから。」
院長は全てを理解した。
私の頭脳は生きている。
これが、これからの私。
そして私は叫んだ。
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