あのマンションの角部屋で

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あのマンションの角部屋で

「は…あ」  夜空を見上げて、ため息。  時計を見ると、まだ七時。  中途半端に振り続けてた小雨が、ようやく止んだ。  六月。  高校生になって二ヶ月。  保育園から中学まで、インターナショナルスクールの生徒で寮生だったあたしは、早くもこの街に戻ってきたことを後悔しそうになっていた。  あたし、桐生院知花(きりゅういんちはな)は華道の名家、桐生院の長女。  でも、年に何度かあるお茶会の席にも、ほとんど呼ばれることはなくて。  あたしは、15年間のほとんどを、スクールの寮ですごしていた。  七つの時、お茶会で知り合った七生聖子(ななおせいこ)と同じ高校に行きたくて。  おばあちゃまの反対を押し切ってまで帰って来たのはいいけれど…  月曜日と金曜日はお華の生徒さん、水曜日はお茶の先生が来られるからって、あたしは、九時まで家に帰れない。  あたしの髪の毛は、なぜか赤毛。  目も、なんとなく日本人ばなれの色。  そんなわけで…変装を強いられている。  あたしの実の母親は、あたしを産んですぐにいなくなった。  父さんやおばあちゃまは、死んだって言ってたけど。  継母さんが…いつも、言ってた。 「おまえの母親は、血の繋がりのない貴司(たかし)さんにおまえを押し付けて逃げたのよ」  継母さんは美しい人だったけど、あたしはかなり嫌われてて…一度も娘とは思ってもらえなかった。  その継母さんが産んでくれた、あたしにとっては可愛い双子の弟妹。  弟の(ちかし)は人懐っこい笑顔で慕ってくれるけど…  お母さん子だった(うらら)は、一度もあたしを姉と呼んでくれた事がない。  その継母さんも、あたしが13の時に亡くなって。  父さんは若いのに、すでに二人も奥さんを亡くしてるって、近所で話題の種にされてる。  映像会社の社長をしている父さんは、よっぽどあたしの母親が好きだったらしい。  誰の子供かも分からないあたしをお腹の中に抱えていた母親と、結婚したなんて。  せめて、あたしが黒い髪の毛、黒い瞳であれば、ごまかしもきいたのに。  生まれてみれば、赤毛。  父親が父さんでないことは、確かだ。  でも、父さんは。 「おまえのお母さんは、ハーフだったんだよ」  って、ささやかな嘘をついてくれる。  時計を見て、ため息。  あまりウロウロしてると、補導されちゃいそうだし…  …変装してても、家で誰かに鉢合わせちゃいけないなんて…ね。  桐生院家の長女として認められない立場に、苦笑いするしかない。 「……」  どこか、こっそり時間をつぶせる場所がないかな…  ゆっくりと周りを見渡す。  あっ。  あのマンションに行ってみよう。  レンガ色の10階建て。 『あなたの幸せが宿る場所』っていうキャッチコピーに惹かれて、モデルルームを見に行った。  確か…完成したんだよね。  記憶を頼りにマンションの前に辿り着くと、業者らしい人たちがウロウロしてた。  あ、内覧会だったんだ。  まだ、入れるかな。 「あの…」  あたしは、小さく声をかける。 「はい?」  スーツ姿のお兄さんが、振り向いた。 「あの、まだ中見られますか?」 「ああ、いいですよ。八時までですから、どうぞ」  パンフレットを差し出されて。 「お父さんとお母さんに、よろしくね」  なんて言われてしまった。  リビングの写真がメインの表紙には、あたしが惹かれたキャッチコピーが書かれてて。  それを見ると…より一層このマンションに憧れが湧いた。  きれいだな。  新しい匂い。  エレベーターのボタンを押して、下りてきたエレベーターに乗り込む。  平日だからかな。  あまり人はいないみたい。  何階に行ってみよう。  パンレットを開いてみると、バルコニーやベランダの構図が階ごとに変わってる。  日当りから言って、10階の端っこがいいな。 「……」  エレベーターを降りて、感動。  きれいだし、広い。  1フロアに五世帯。  あたしはパンフレットを持ったまま、特に深い意味もなく…左端の部屋に向かった。  ゆっくりドアノブに手をかけて… 「……」 「…よお」  ドアを開けると、玄関に、男の人。  よお…って、知らない人だよね? 「こ、こんにちは…」  とりあえず、小さく答える。 「何、ここ見に来たのかよ」 「…はい」 「一人で?」 「はい」  低い声に若干身体を硬くしながら答える。  髪の毛はふぞろいで長くて…ちょっと不良っぽい感じ。  どうしよう。  よりによって、人のいるところに来てしまうなんて… 「俺は、神 千里(かみ ちさと)」  突然、自己紹介されてしまった。 「はあ…」  神さん…。 「おまえは?」 「あ、桐生院知花(きりゅういんちはな)です」 「何?」 「桐生院、知花、です」  あたしの名前は聞き取りにくいらしい。  神さんは、ニヤニヤしながらあたしを見て。 「いくつ」  って… 「え?」 「歳」 「…今年16になります」  あたしが小さく答えると。 「俺は20。シンガーやってる」  神さんは、前髪をかきあげながら言われた。 「シンガー?」 「ああ」  シンガー。  あたしが、目指してる職業。  まさか、そんな人が目の前に現れるなんて… 「おまえ、ロックとか聴かねえ?」 「あんまり…」  邦楽ロックは。  洋楽ならバッチリなんだけど。 「ん…いいな」 「?」  神さんは、相変わらずニヤニヤしながら、あたしを見てる。 「中、見るか?」 「いいんですか?」 「見に来たんだろ?」 「…はい」  神さんに言われて、中に入る。  左に入ると、ダイニングキッチン。 「うわあ、広い」  そして、リビングの外にはバルコニー。  10畳ぐらいの洋間が二つと、8畳の和室が一つ。  トイレとお風呂も、きれいで使いやすそう。  それより何より、素敵な夜景! 「すごいなあ…いいなあ」  あたしが独り言のようにつぶやくと。 「住めば?」  神さんが、そっけなく言われた。 「無理ですよ…」 「家族で引っ越すとか」 「まさか」 「ここ、既婚者じゃないと入れないらしいぜ」 「あはは…夢のまた夢ですね…」  あたしは、リビングでパンフレットを眺めながら。 「あたし、早く家を出たくて。こんな所に住めたらいいなって、モデルルーム見た時から思ってたけどー…夢だな、やっぱり」  小さく、つぶやく。 「何、厳格な家?」 「…そうとも言います」  あたし、初対面の男の人に、こんなこと言っちゃうなんて…どうかしてるな。  なんて、思いながらも。 「こんなに素敵な所で暮らせたら、幸せになれそうな気がする」  何気なく、出た言葉。  本心ではあるけれど、まさか口に出すとは自分でも思ってもみなかった。  すると。 「かなえてやろうか?」  神さんがバルコニーに出て、あたしを見ながら言われた。 「……」  今、この人…かなえてやろうか。  …って言った…?  魔法使い?って、少し笑いそうになったんだけど。 「おまえ、今年16になんだろ?誕生日、いつだ?」  って、真顔。 「じ…12月24日…です」 「クリスマスイヴか。まだ少しあるな」 「…あの…」 「結婚できる歳だろ?」 「…え?」 「俺も、ここに住みたい。おまえも、ここに住みたい。俺ら、結婚したらうまくいくと思うぜ?」 「……」  結婚… 「結婚!?」 「んな、驚くことじゃねえだろ?偽装結婚だよ」 「ぎっ偽装って…それって、違法でしょ?」 「バレたら、な。バレなきゃいいさ」 「……」  夜景をバックに、神さんはなんだか絵になって…見惚れてしまう。  …話の内容は、とんでもない物だけど。 「…あたし、学生なんですよ?」 「学校にもバレなきゃいいんだろ?」 「…でも、家族だって…」 「説得してやるさ」 「…あなたのことだって、何も知らない」 「俺だって、おまえのこと何も知らないぜ」 「じゃ…」 「だから、12月まで半年あるだろ?」 「……」 「付き合えばいいじゃねえか。本当の恋人みたいに」  ゴクン。  こ…この人、本気で言ってるの…?  こんなとんでもない事を、まるで今からどこかに遊びに行くお誘いみたいに…さらりと… 「どうする?」 「…家族を騙すなんて…」 「迷惑かけなきゃ、嘘もいいんじゃねえか?」 「……」  なんだか、大胆な人。  本当に、そんなことができるの?  そりゃあ、ここに住めたら…多少の秘密はあったって、苦にならないかもしれない。  でも、そんな…初めて会った人と、結婚を前提におつきあいする…なんて。  即答できない。 「いやならいいんだぜ。他探すから」 「…え」  考えさせて下さいって言おうとして、キッパリ。  どうしよう… 「ここに住みたいがための夫婦だからな。お互いのプライバシーには関与しなくていいし…結構気楽じゃねえか?」 「……」  神さんの、やけに説得力のある声。  あたしは、その声に背中を押されて。 「…よろしくお願いします」  とんでもないこと、言ってるような気がしたけど。  頭をさげてしまってた。  神さんは、あたしの肩に手をかけて。 「決まり。おまえは今日から俺の女ってことだな」  って、笑われたのよ…。
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