62人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
あのマンションの角部屋で
「は…あ」
夜空を見上げて、ため息。
時計を見ると、まだ七時。
中途半端に振り続けてた小雨が、ようやく止んだ。
六月。
高校生になって二ヶ月。
保育園から中学まで、インターナショナルスクールの生徒で寮生だったあたしは、早くもこの街に戻ってきたことを後悔しそうになっていた。
あたし、桐生院知花は華道の名家、桐生院の長女。
でも、年に何度かあるお茶会の席にも、ほとんど呼ばれることはなくて。
あたしは、15年間のほとんどを、スクールの寮ですごしていた。
七つの時、お茶会で知り合った七生聖子と同じ高校に行きたくて。
おばあちゃまの反対を押し切ってまで帰って来たのはいいけれど…
月曜日と金曜日はお華の生徒さん、水曜日はお茶の先生が来られるからって、あたしは、九時まで家に帰れない。
あたしの髪の毛は、なぜか赤毛。
目も、なんとなく日本人ばなれの色。
そんなわけで…変装を強いられている。
あたしの実の母親は、あたしを産んですぐにいなくなった。
父さんやおばあちゃまは、死んだって言ってたけど。
継母さんが…いつも、言ってた。
「おまえの母親は、血の繋がりのない貴司さんにおまえを押し付けて逃げたのよ」
継母さんは美しい人だったけど、あたしはかなり嫌われてて…一度も娘とは思ってもらえなかった。
その継母さんが産んでくれた、あたしにとっては可愛い双子の弟妹。
弟の誓は人懐っこい笑顔で慕ってくれるけど…
お母さん子だった麗は、一度もあたしを姉と呼んでくれた事がない。
その継母さんも、あたしが13の時に亡くなって。
父さんは若いのに、すでに二人も奥さんを亡くしてるって、近所で話題の種にされてる。
映像会社の社長をしている父さんは、よっぽどあたしの母親が好きだったらしい。
誰の子供かも分からないあたしをお腹の中に抱えていた母親と、結婚したなんて。
せめて、あたしが黒い髪の毛、黒い瞳であれば、ごまかしもきいたのに。
生まれてみれば、赤毛。
父親が父さんでないことは、確かだ。
でも、父さんは。
「おまえのお母さんは、ハーフだったんだよ」
って、ささやかな嘘をついてくれる。
時計を見て、ため息。
あまりウロウロしてると、補導されちゃいそうだし…
…変装してても、家で誰かに鉢合わせちゃいけないなんて…ね。
桐生院家の長女として認められない立場に、苦笑いするしかない。
「……」
どこか、こっそり時間をつぶせる場所がないかな…
ゆっくりと周りを見渡す。
あっ。
あのマンションに行ってみよう。
レンガ色の10階建て。
『あなたの幸せが宿る場所』っていうキャッチコピーに惹かれて、モデルルームを見に行った。
確か…完成したんだよね。
記憶を頼りにマンションの前に辿り着くと、業者らしい人たちがウロウロしてた。
あ、内覧会だったんだ。
まだ、入れるかな。
「あの…」
あたしは、小さく声をかける。
「はい?」
スーツ姿のお兄さんが、振り向いた。
「あの、まだ中見られますか?」
「ああ、いいですよ。八時までですから、どうぞ」
パンフレットを差し出されて。
「お父さんとお母さんに、よろしくね」
なんて言われてしまった。
リビングの写真がメインの表紙には、あたしが惹かれたキャッチコピーが書かれてて。
それを見ると…より一層このマンションに憧れが湧いた。
きれいだな。
新しい匂い。
エレベーターのボタンを押して、下りてきたエレベーターに乗り込む。
平日だからかな。
あまり人はいないみたい。
何階に行ってみよう。
パンレットを開いてみると、バルコニーやベランダの構図が階ごとに変わってる。
日当りから言って、10階の端っこがいいな。
「……」
エレベーターを降りて、感動。
きれいだし、広い。
1フロアに五世帯。
あたしはパンフレットを持ったまま、特に深い意味もなく…左端の部屋に向かった。
ゆっくりドアノブに手をかけて…
「……」
「…よお」
ドアを開けると、玄関に、男の人。
よお…って、知らない人だよね?
「こ、こんにちは…」
とりあえず、小さく答える。
「何、ここ見に来たのかよ」
「…はい」
「一人で?」
「はい」
低い声に若干身体を硬くしながら答える。
髪の毛はふぞろいで長くて…ちょっと不良っぽい感じ。
どうしよう。
よりによって、人のいるところに来てしまうなんて…
「俺は、神 千里」
突然、自己紹介されてしまった。
「はあ…」
神さん…。
「おまえは?」
「あ、桐生院知花です」
「何?」
「桐生院、知花、です」
あたしの名前は聞き取りにくいらしい。
神さんは、ニヤニヤしながらあたしを見て。
「いくつ」
って…
「え?」
「歳」
「…今年16になります」
あたしが小さく答えると。
「俺は20。シンガーやってる」
神さんは、前髪をかきあげながら言われた。
「シンガー?」
「ああ」
シンガー。
あたしが、目指してる職業。
まさか、そんな人が目の前に現れるなんて…
「おまえ、ロックとか聴かねえ?」
「あんまり…」
邦楽ロックは。
洋楽ならバッチリなんだけど。
「ん…いいな」
「?」
神さんは、相変わらずニヤニヤしながら、あたしを見てる。
「中、見るか?」
「いいんですか?」
「見に来たんだろ?」
「…はい」
神さんに言われて、中に入る。
左に入ると、ダイニングキッチン。
「うわあ、広い」
そして、リビングの外にはバルコニー。
10畳ぐらいの洋間が二つと、8畳の和室が一つ。
トイレとお風呂も、きれいで使いやすそう。
それより何より、素敵な夜景!
「すごいなあ…いいなあ」
あたしが独り言のようにつぶやくと。
「住めば?」
神さんが、そっけなく言われた。
「無理ですよ…」
「家族で引っ越すとか」
「まさか」
「ここ、既婚者じゃないと入れないらしいぜ」
「あはは…夢のまた夢ですね…」
あたしは、リビングでパンフレットを眺めながら。
「あたし、早く家を出たくて。こんな所に住めたらいいなって、モデルルーム見た時から思ってたけどー…夢だな、やっぱり」
小さく、つぶやく。
「何、厳格な家?」
「…そうとも言います」
あたし、初対面の男の人に、こんなこと言っちゃうなんて…どうかしてるな。
なんて、思いながらも。
「こんなに素敵な所で暮らせたら、幸せになれそうな気がする」
何気なく、出た言葉。
本心ではあるけれど、まさか口に出すとは自分でも思ってもみなかった。
すると。
「かなえてやろうか?」
神さんがバルコニーに出て、あたしを見ながら言われた。
「……」
今、この人…かなえてやろうか。
…って言った…?
魔法使い?って、少し笑いそうになったんだけど。
「おまえ、今年16になんだろ?誕生日、いつだ?」
って、真顔。
「じ…12月24日…です」
「クリスマスイヴか。まだ少しあるな」
「…あの…」
「結婚できる歳だろ?」
「…え?」
「俺も、ここに住みたい。おまえも、ここに住みたい。俺ら、結婚したらうまくいくと思うぜ?」
「……」
結婚…
「結婚!?」
「んな、驚くことじゃねえだろ?偽装結婚だよ」
「ぎっ偽装って…それって、違法でしょ?」
「バレたら、な。バレなきゃいいさ」
「……」
夜景をバックに、神さんはなんだか絵になって…見惚れてしまう。
…話の内容は、とんでもない物だけど。
「…あたし、学生なんですよ?」
「学校にもバレなきゃいいんだろ?」
「…でも、家族だって…」
「説得してやるさ」
「…あなたのことだって、何も知らない」
「俺だって、おまえのこと何も知らないぜ」
「じゃ…」
「だから、12月まで半年あるだろ?」
「……」
「付き合えばいいじゃねえか。本当の恋人みたいに」
ゴクン。
こ…この人、本気で言ってるの…?
こんなとんでもない事を、まるで今からどこかに遊びに行くお誘いみたいに…さらりと…
「どうする?」
「…家族を騙すなんて…」
「迷惑かけなきゃ、嘘もいいんじゃねえか?」
「……」
なんだか、大胆な人。
本当に、そんなことができるの?
そりゃあ、ここに住めたら…多少の秘密はあったって、苦にならないかもしれない。
でも、そんな…初めて会った人と、結婚を前提におつきあいする…なんて。
即答できない。
「いやならいいんだぜ。他探すから」
「…え」
考えさせて下さいって言おうとして、キッパリ。
どうしよう…
「ここに住みたいがための夫婦だからな。お互いのプライバシーには関与しなくていいし…結構気楽じゃねえか?」
「……」
神さんの、やけに説得力のある声。
あたしは、その声に背中を押されて。
「…よろしくお願いします」
とんでもないこと、言ってるような気がしたけど。
頭をさげてしまってた。
神さんは、あたしの肩に手をかけて。
「決まり。おまえは今日から俺の女ってことだな」
って、笑われたのよ…。
最初のコメントを投稿しよう!