オスロの湾岸で世界が叫ぶ

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 しかしそれは、けして悪い結果をもたらしたばかりではない。良くも悪くも、私という人間の人生は病・狂気・死というこの三つの要素によって彩られ、形創られたものなのである。  その後、私は技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになったのだが、リューマチ熱のために欠席がちとなり、1880年11月8日にはついに退学することとなった。  だが、このこと自体はさほどショックなことではない…いや、むしろ私にとっては人生が好転する転換期であったといって過言ではない。  なぜならば、私は技師なんかより画家になりたかったというのに、あの父に反対されていたからだ。  そんな中、この病によってやむなく退学となり、はからずも画家になる大義名分が手の中に転がり込んで来たのである。  その宿命的な成り行きから、その頃の日記を読み返してみると… 〝僕の運命は今や――まさに画家になることだ〟  などと、少々気恥ずかしいが若気の至りにも書いていたりする。  まあ、それまでにも水彩画や鉛筆画で風景や家屋をスケッチをしていたりはしたのだが、記念すべき1880年5月22日、私は油絵用の画材一式を買い、古アーケル教会を写生して本格的な創作活動を開始した。  病がちな私に父もその選択を認めざるを得ず、説得に成功した私はノルウェー王立絵画学校の夜学に通ったり、友人達と国会広場前のビルの屋根裏にアトリエを借りて尊敬すべきクリスチャン・クローグの指導を受けるなどその道に邁進し、徐々に健康も取り戻していった。  そして、ようやく自分らしい真の人生が開けてきた私は、クリスチャニア・ボヘミアンという前衛的な作家・芸術家グループと交流を持つようになる。  特にそのリーダーであったアナーキスト作家ハンス・イェーゲルの思想に心底共感し、当時クリスチャニアの若者達が熱狂していたのと同様、すっかりその信奉者となってしまった。  彼は伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えていた……。  そんな彼の思想に惹かれたのも、対局にあった狂信的な父への反発からだったのかもしれない。
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