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足柄の温泉は静かで、人が少なかった。女湯は、わたしの他には八十代くらいの女性が二人だけで、その二人はわたしが掛け湯をしている間に出て行った。
内湯でからだを温め、外の露天風呂に入る。木々に囲まれた露天風呂の湯はぬるめで、長時間浸かってものぼせないようになっていた。
時折風が抜けて、木々がざわざわと音を立てた。雨は上がり、雲の隙間から薄い三日月が覗いていた。
わたしは不意に寒気を感じ、ふるっと身震いすると肩までお湯に浸かった。初春の夕方はまだ寒い。空気が張り詰めているように感じた。
湯の中でわたしはぼんやりと思った。将吾さんを大切に思う気持ちに変わりはない。傷つけたくないし裏切りたくないと思っている。
でも、将也さんに強く惹かれていることも事実で、将也さんに抱かれたことが、忘れようとしても忘れられない。
カオルさんは、将吾さんから将也さんに気持ちが移ったとき、どんな思いだったのだろう。
将也さんも、弟の彼女と付き合うと決めたときは、思い悩んだりしたのだろうか。
そこまで考えたときに、心の奥が鈍く痛むのを感じた。嫉妬の鈍い炎が、わたしの心をちろちろと焼いていく。
将吾さんが愛し、抱いた人。
将也さんが愛し、抱いた人。
将吾さんがわたしを好きになったのは、カオルさんに似ているからだろうか。
将也さんがわたしに冷たかったのは、カオルさんと同じような姿形、声なのにわてしが彼女と違って自信がなく、プロ意識に欠けていたからだろうか。
動画サイトで見た彼女は自信たっぷりで、いつも自信のない自分とは雲泥の差だ。外見と声が似ているだけで、きっと性格は似ていないだろうに、とわたしは苦く思う。
将吾さんを「守りたい」と思ったのは本当だ。心の底からそう思った。けれども、そのためには将也さんへの気持ちを完全に封印しなければならない。
帰りの車の中で、わたしは目を閉じて心の中でつぶやいた。
神様。将也さんのことは忘れます。あれは、一回きりの間違いです。
だからわたしに、将吾さんを守らせてください。彼が二度と傷つかないように。将吾さんを愛し続けられるように……。
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