レコーディング依頼

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 定時後、わたしは片付けもそこそこに四谷に急いだ。駅からスタジオまではスマートフォンの地図アプリを確認しながら進む。  たどり着いたのは、都内にいくつもスタジオを持っているチェーンでもなければ、大手レコード会社が持っているスタジオでもない。個人経営を思わせる、こぢんまりとしたスタジオだった。  入り口に乱雑に貼られたチラシを眺めつつ、建て付けの悪いドアを開ける。下に伸びた急階段の手すりにつかまりながら、慎重に降りる。  受付には、孫がいてもおかしくなさそうな年配の男性がいた。教えられた通り柳島さんの名前を言うと、すぐに奥のスタジオに案内してくれた。 「頑張んな」と去る男性の背中にペコリとお辞儀をし、防音ドアのノブを力を込めて開ける。  中にいた数人の男性が一斉に振り返った。全員ライダースを着込んだ強面(こわもて)で、その迫力に思わず後ずさる。と、なにかにぶつかった。 「(あつ)っ!」 「ごめんなさい、大丈夫ですか」  すぐ後ろに男性がいたことに、まったく気がついていなかった。わたしが後ずさったことで彼にぶつかり、彼が持っていた紙コップの中身がこぼれて手にかかってしまっている。  わたしは慌ててタオルを取り出し、男性に渡した。 「本当にごめんなさい。後ろにいらしたの、気がついていなくて」  もう一度謝りながら顔を上げ、驚いて息を呑む。  目の前でむっとした顔をしているのは、柳島将吾さん……だと思うのだけど、この前のオーディションのときと比べて、印象が違いすぎた。  目が隠れるほどの長い前髪はブリーチされて金髪だ。オーディションのときと髪色違う。  耳元には小さなフープのピアス、黒のライダースにスキニージーンズ、履いているドクターマーチンは年季が入っている。  柳島さんも、わたしの顔を凝視している。またか、と思いつつもなにも言えず、わたしはふと視線を逸らした。 「高瀬さん、かな」 「は、はい。高瀬です。今日はよろしくお願いします」   柳島さんは少し屈むと、わたしに目線を合わせた。 「柳島です。よろしく」 「あ、の」  ようやく絞り出した声はカラカラに掠れていて、何回か咳払いをしてようやく普段の声を出せた。 「プロデューサーの、柳島将吾さんですか」  柳島さんはキョトンとした目でわたしを見ると、しばらくしてくすっと笑った。 「それ、オレの弟」 「弟?」 「高瀬さん、この前オンラインゲームのオーディション受けたでしょ。あの場にいたのがオレの双子の弟でプロデューサーの柳島将吾。オレは双子の兄で将也(まさや)っていいます」 「じゃあ、今日のは、柳島将吾さんのご依頼ではない……んですね」 「弟じゃなくて悪かったね」  少し拗ねたような言い方に、機嫌を損ねたかとわたしは慌てた。柳島お兄さんは無言で防音ドアを開け、中に促した。さっきの強面の方々が再び一斉に振り返る。 「こいつら、オレのバンドの仲間」  柳島お兄さんはわたしにスコアを渡した。 「ここの、このパートを歌ってほしい。16小節分歌ってくれればいいんで」 「はい」 「メロディライン確認して」  柳島お兄さんはスマートフォンを出すと音源を再生した。 「セクシーな感じのバラードで、どうしても女性の声が欲しくてね。弟に心当たりがないか聞いて、高瀬さんのこと教えてもらった」  そういう経緯だったのか、と思う。メディアミックスプロデューサーからの仕事、なんておいしい話が早々転がり込んでくるわけがない。でも、ここまできたのだから、落胆している暇はない。与えられたチャンスを活かさなければ、次はないのだから。
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