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「よかったよ」
コントロールルームに戻ると、柳島お兄さんに声をかけられた。
今までの経験の中では、うまくできた方に入ると思う。でも、それはあくまでも自己評価で、実際はどうなのかわからない。
柳島お兄さんが求めていたコーラスではなかったかもしれない。落胆させたかも……と思うと急にいたたまれなくなり、わたしは小さな声で「失礼します」と頭を下げた。急ぎ足でコントロールルームを出てスタジオの急階段を登り、外に出ようとしたときだった。
「ちょっと待って」
後ろから追いかけてきた柳島お兄さんに、腕を掴まれた。
「痛っ」
「あ……ごめん」
柳島お兄さんが手を離すと、掴まれたところがじんじんと痺れるような感覚があった。
「契約書にサインして欲しいんだけど。謝礼も払う」
「いいです、謝礼とかいりません」
「は? 何言ってんの」
「ほんとにいいです、いりません」
どん、と壁に手を突かれた。柳島お兄さんの顔が近寄る。存在感のある力強い目に射られて、蛇に睨まれたカエルのように動けない。
「高瀬さん、プロだよな」
「は、はい、一応」
「一応って」
柳島お兄さんの呆れたよう声が、わたしをますます強張らせた。
「自分の声にプライド持てよ、プロなんだからさ」
「でも、うまく歌えませんでしたし」
「うまく歌えないとか、勝手に決めつけんなよ。オレ、下手くそって言った? 使えねぇって言った?」
責められているかのような矢継ぎ早な言葉に、さらに追い詰められた。顔を上げられず、下を向いたまま唇を噛む。
どんなに練習しても自信を持てない、無個性に聴こえる平凡な自分の声。周りの、特徴のある声や綺麗な声、張りのある声が羨ましかった。自分の声ではなく、他人の声が欲しかった。だから、自分の声にプライドなんて持てるわけがない。
「柳島さんには、わからないと思います」
「なんも言わねぇんじゃわからなくて当たり前だろ」
「だって」
「だってだってって、言い訳ばっかしてんな、あんた。声の仕事したいからオーディション受けたんだろ」
「もう、いいです!」
「あ、ちょっと、高瀬さん!」
わたしは柳島お兄さんの横をすり抜け、階段を駆け上った。軋むドアを開けて外に出、振り向かずに駅まで走る。
走りながら考えた。もう声優の夢は完全に諦めよう。地道に会社員として働こう。それが一番良い。嫌な思いをしなくて済む。
駅に着き、電車に飛び乗った。上がった息を懸命に落ち着かせようと深く呼吸する。喉が、胸が苦しいのは、走ったからだけではないことくらい、わかっていた。
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