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わたしは町谷くんと約束した通り、それから30分で仕事を終えて自社ビルの入り口に向かった。町谷くんが立っているのが見える。ふと町谷くんが顔を上げ、微笑んで片手を上げた。
「お疲れ」
「お疲れ様」
声を掛け合って外に出ると、三月半ばとはいえどもまだ冷たい風がひゅっと吹いた。
「寒っ」
「まだまだ春は遠いね。夜は冷えるし」
「うん。早く暖かくならないかなぁ」
世間話をしながら、会社のある大通りを抜けて駅に向かう。行き交う人の中に、不意に見慣れた姿が目に飛び込んできた。
金色にブリーチした髪。黒のライダースに黒のスキニージーンズ。黄色いステッチのドクターマーチン。いくつものクロムハーツに、スカルの指輪が嵌った手。
わたしはすぐに目を逸らしたけれども、将也さんはまっすぐこっちに向かって歩いてきた。近づいてくるたびに、腰にぶら下げたチェーンがカチャカチャとぶつかる音がする。
「七海ちゃん」
声をかけられても返事ができない。久しぶりに聞いた将也さんの声は、甘く鼓膜に響いた。
「柳島さんこんばんは。お迎えですか」
町谷くんは、どうやら前のときのように、将也さんを将吾さんと勘違いしているようだった。
「髪、染めたんですね。なんか雰囲気変わりますね」
わたしは町谷くんが勘違いに気付くように願いながら、将也さんに声をかけた。
「お義兄さん」
名前ではなくてそう呼ぶことで、自分にも戒めるつもりだった。わたしは将吾さんと婚約していて、入籍したら将也さんの義理の妹になるのだ、と。
「将吾さんなら、まだ会社だと思います。今日も遅くなるって連絡きたから」
それだけ告げて、顔を背け下を向く。会話をすることが、怖かった。
かかってきた電話を無視したのは、なんのためだったのか。
本当は声を聞きたくて堪らず、触れたくて仕方がなかった。けれどもそれらに堪えて、電話も無視した。すべては将也さんを忘れるためだったのに、どうしてその努力をあっさりと無駄にしてくれるのか。
わたしは急ぎ足で駅に向かった。町谷くんはどうしただろう。あの場で、将也さんと話をしただろうか。将吾さんではない、と気づいただろうか。
改札に入ると、ちょうど電車がホームに入ってきてそれに飛び乗った。
家に着いたら鍵をかけ、誰が来ても開けてはいけない。電話にも出てはいけない。将吾さんが帰ってくるまで、息を殺してやり過ごさなければ。
将也さんに会ってはいけない、話してはいけない……決意が、揺らいでしまうから。
駅からマンションまで、まるで何かに追われているかのように小走りになりながら帰った。
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