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マンションの入り口が見えたとき、心底ほっとした。
歩みが緩んだときに「七海ちゃん」と呼ばれ、背中に震えが走った。わたしはゆっくり振り向いた。 そこには、バイクから降りてヘルメットを小脇に抱えた将也さんがいた。
「将也、さん」
将也さんの名を口にした瞬間に、甘さが広がる。その甘みは全身を侵食し、胸に苦味のある疼きを生む。
「逃げたいくらい嫌いになっちゃった?」
将也さんはわたしの目線に合わせて屈み込み、少し掠れた声で聞いてきた。
わたしは慌てて目を背けた。将也さんの深い、美しい瞳に魅入られたら、理性を保てる自信がなかったのだ。
「何回か電話したのに、なんで出てくんねぇの」
わたしは唇を噛み締めて、さらに下を向いた。
電話に出たら気持ちが止められない。声を聞いたら想いが募る。
会いたくて、触れたくて、交わりたくなる。将也さんへの溢れる想いが再燃し、じわじわと全身を侵食する。
「オレ……どうしたらいいのか、わかんねぇんだよ。七海ちゃん、将吾と結婚するのにさ」
ためらいがちに伸ばされた手が、わたしの腕に触れた。反射的にびくん、と反応してしまう。まるで、電気が走ったかのようだ。
「ごめん。やっぱ嫌だよな」
将也さんは手を引っ込めた。
「その、さ。妊娠とか……大丈夫だったかなって思ってさ。あの日、避妊しなかったからオレ、心配で」
「大丈夫、です。ちゃんと、きたので」
「そっか」
将也さんが近づく。わたしは触れられないように後ずさった。
「参ったな」
将也さんは苦笑すると、独り言のように呟いた。
わたしは体を強張らせた。いっそこのまま、将也さんの腕に飛び込み、唇を求められたら。でも、それは許されることではないのだ。その衝動に懸命に耐えていることを、知られてはいけない。
「何やってんの、二人」
声に驚き振り向くと、仕事帰りの将吾さんが立っていた。
「兄貴、どうしたの。なんかあったか」
「いや、別になんでもない」
「ふうん。兄貴が用あるの、オレだろ。七海に用がある訳、ないもんな」
将吾さんがちらりとわたしを見た。気持ちを見透かされたように感じて、私は不安になった。
「七海、これ冷凍庫に入れといて。アイスだから、溶けると困るだろ」
「はい」
わたしは将吾さんに渡されたコンビニの袋を持つと、後ろ髪を引かれるような思いでマンションに入った。
部屋に入っても落ち着かず、意味なくうろうろと歩きまわった。
将也さんは将吾さんに、何を話すのだろうか。もしも将也さんがあの夜のことを話してしまったら、どうしたら良いのか。想像すると、不安と恐れで気持ち悪くなるほどだった。
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