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言ってから悔やんだ。もう関わらない、会わない、話さない、と決めたのに、どうして家にきて、なんて言ってしまったのか。
わたしは自分に言い聞かせた。将也さんの怪我を手当てするだけで、他にやましいことはない。手当てが終わったら帰って貰う。それだけだ。
エレベーターが5階に着くまでがもどかしい。将也さんは口を一文字にして階数表示を見ている。わたしには、視線を寄越さない。
「どうぞ」
鍵を開けて将也さんを招き入れる。将也さんは小さな声で「お邪魔します」と中に入り、ドクターマーチンを脱いだ。
カチャカチャと金属の擦れ合う音に、あの日のことがフラッシュバックする。わたしは軽く頭を振って、記憶を外へと押しやった。
ソファに座ってもらい、腫れているところを濡らしたタオルで冷やした。血をぬぐい、傷を消毒する。
「七海ちゃん」
顔を上げたら、将也さんと目が合った。
「将吾から、何か言われたか」
「いえ、何も」
怪我は思ったほどではなく、痣以外は軽い擦り傷が多かった。瞼の腫れも、多分二、三日で落ち着くだろう。
「将也さんこそ、何も話してないんですか」
絆創膏を取り出し、指先に貼った。
「何もって」
「あの日のこと」
言ってしまうと、恥ずかしいくらいに体の内側に火が灯る。
筋肉質な二の腕に抱きとめられ、ギターを爪弾くように、丁寧に服を脱がされた。舌の愛撫、唾液の味。とめどなく溢れる蜜。貫かれ、全身の細胞が快楽に喜悦し、震えが止まらなかったあの瞬間。甘くて苦い、背徳。
「七海ちゃん?」
呼ばれて、はっと我に返った。慌てて絆創膏や消毒液を片付け、立ち上がる。
「お茶、入れます。お茶飲んだら帰ってください」
将也さんは、黙ってわたしを見た。見られている、というだけで、わたしは体の奥がきゅっとなるのを感じた。
「どうぞ」
サイドテーブルにカップを置く。
「ありがとう」
将也さんがカップを口に運ぶ。その唇に引き寄せられるように見入る。お茶を飲み終わったら、帰ってもらう。手当てをしただけ。何も後ろめたいことはない。
「なんで、殴られてたんですか」
黙っていると抱きついてしまいそうで、それを抑えるために話しかけた。話していれば、この衝動をきっと無視できる。
「ユウって覚えてる? リコの、前の男。七海ちゃんを拉致った奴」
「あ、はい」
「アイツにさ、たまたまあそこで会って、難癖つけられて仲間呼ばれた。アイツのパンチ、型は派手だけど全然ダメージねぇんだよ。けど、人だかりになっちまったから、ちょっと倒れるフリでもすれば終わるかなって思ってさ」
それは強がりだとわかった。確かに、体に残っているあざや打撲は思ったほど酷くなかったけれども、相当のダメージを受けたのはわかる。
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