その一 末の龍王・葵

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 (さとる)は石段に置かれた草履を履き、中庭に降りて呼びかけた。 「宮さま……」  暁の声に驚いたのか、主の細い肩がびくりと跳ねた。そのままゆっくりと振り返り、蓮池のほとりに暁の姿を認めると、その頬に安堵の笑みが浮かぶ。 「暁なの?驚いたぁ……」  潜めた声でそう云うのは、年の頃で云えば十代半ばにも届かぬほどの子供。  一見しては、少年とも少女とも判ずることのできぬ容貌をしている。  金に限りなく近い香色の髪が、膝裏に届くほど長く伸ばされていることと、その華奢な体つきも理由だが、それ以上に顔の麗しさが中性的なのである。  いや人間にさえ譬うべきではない。まさに主は人ではなく生き神と崇められる神聖の御子。すでにこの世にただ独りとなった龍の“幼生”。人の姿を借りてはいるが、龍王と称される尊体のひとりなのだ。  この地に建てられた水連宮のあるじであることから、建物の名をとって蓮ノ宮(はすのみや)と呼び習わされている。尊き御名を呼ぶことは、慎むべしとされていた。  暁はほれぼれと、花のようにたおやかな主の姿を見つめた。蓮の花に囲まれた四阿(あずまや)に立ち、月光を浴びて銀色に光り輝いている姿は、本当にその場に実在しているかすら疑わしいほどの神秘性を帯びていた。  淡い菫色の瞳を時おり覆い隠すその二重の瞼の白さも、上向き加減の長い睫毛の揃い方も、なめらかな鼻梁も、薄桃の唇も、すべてが儚く、現実離れしている。  (ぼう)っとしかけて、暁は我に返った。 「宮さま」  橋を渡って四阿に近づき、主と対面する。身の丈六尺に及ぶ暁は、子供の姿をしている主を遙かに見下ろす形となった。 「このような寒い宵に、なにゆえ庭へなどお出ましあそばしたのですか? 万が一、お風邪をお召しにでもなられたら、私が上宮さま方にお叱りを受けてしまいます」 「ごめんなさい。でもどうしても、眠れなくて」  御名を(あおい)というその龍王は、視線を池の水面に落とす。俯くと、浅緋色の組み紐で束ねた鬢の髪がひとすじ、さらさらと肩から前に落ちかかった。  いくら水蓮宮の聖職を束ねる従祀(じゅうし)長とはいえ、側仕えである(さとる)に、なにも主は謝る必要はないのだが、そういうところが主らしさでもある。暁は慌てて主を仰ぎ見るような形になるよう、膝をついた。 「さようでございましたか。実は、私もでございます」 「暁も?」  主は、驚いたように暁に目を向けた。 「暁も心配だったの?」 「は、何がでございますか」 「あんまり寒いから、池の蓮の花が萎れちゃうのではないかって……」  暁はやれやれと苦笑する。  そもそも今は、本来蓮の花が咲く季節でも時間でもない。こうして春宵の池に桃色の花が咲き誇っているのは、ひとえに花たちが葵に愛でられたがって(おの)ずから、われさきに時期外れの蕾を開いているということだ。この池の蓮は年中枯れず、こうして主の無聊を癒す。  こういう不思議な事象も、龍王宮にあっては常のこと。 「ご心配なさらずとも、蓮の花はこう見えてなかなかに芯の強き花。少しばかりの寒さでは、一夜のうちにたちまち枯れるということはございますまい。まして尊い御身に愛でられたとなれば、それだけで花にも生気が沸きましょう」 「……そうかなぁ?」 「大丈夫でございますよ。さあ、ご寝所へお送り申し上げましょう」
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