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「宮さま、何か憂いがおありならば、どうぞこの暁におっしゃってください。どんな些細なお困りごとでも、私でお力になれるようなことがあれば……」
「ううん。憂いというわけではないの。ただ、ちょっと夢を見たので……少しそれが、気にかかっただけ。
もう大丈夫だよ、ありがとう」
葵は表情の翳りを隠すように微笑んだ。暁は主を元気付けようと、
「宮さまが悩んでおられるときは、私がどんな時でもそのお悩みを晴らすべく努めましょう。我が命尽きるまでずっと宮さまのお傍にいると、誓っているのですから」
「……」
その言葉に葵はむしろ、悲しそうに眉を顰める。しかしそれを暁に見られまいとするかのように、主はさっと背を向けた。そして暁が防寒に着せかけた外衣をはらりと、脱いだ。
絹の夜着に包まれたその肩が、小さく頼りなげであるのを見たとき、暁の胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。暁は下を向き、主が脱いだ衣を受け取った。
「……おやすみ、暁」
それ以上の会話を断ち切るかのように、葵は背中越しにそう告げる。
「おやすみなさいませ……」
暁は静かに拝礼し、そのままの姿勢で、主が立てる微かな衣擦れの音を聞いていた。
やがて部屋の奥に主の姿が消え、暁は頭を下げたままそっと引き戸を閉める。
廊下にはただ、主の残した花のような余香が薫るのみ。
暁の脳裏には、葵が一瞬見せた悲しげな表情がこびりついていた。命が尽きるまでずっとお傍に、と云った瞬間に見せた、あの憂いを一層濃くしたような視線。
(宮さまは、龍と人との寿命の違いを悲しんでおられるのだろうか……)
十年前と全く変わらぬ姿をしている葵。その遊び相手であった自分は、主を追い抜くようにして先に、立派な大人に成長した。一生お仕えするといっても、暁の一生と葵の一生では桁が違う。
しかしそれは仕方のないこと。龍は長寿の生き物であり、仕えている従祀たちは皆、理由はさまざまあれど外界と訣別した人間たち……、唯人に過ぎぬのだ。
(どのようにお慰めしても、こればかりはどうにもならぬ)
暁は溜息を吐き、踵を返して再び草履をはいた。
ここ聖域に居を構えて以降、数々の従祀……人間たちと別れてきたはずの葵である。暁など、そのうちの一人であるに過ぎぬというのに。
それでも、主のあの表情が、いつか来る自分との別れを悲しんでくれてのものならば、暁にとってはそれもまた過分な光栄なのであった。
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