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「いつまでだ?」 「あなた!」 此処まで一言も口を挟まなかった母、祥香(しょうか)が父の袖を引いた。  長い睫毛のかかる黒真珠のような美しい瞳は心配に揺らいでいる。 五人の子を産み、年齢を重ねてもその愛らしさは未だ衰えない。 残念ながら朱夏は精悍な面立ちの父似だ。 女の子らしさや可愛らしさが似合わないと、齢十にして自覚していた。  朱夏は末子で、上に年の離れた兄が二人と姉が二人いる。  上の姉は兵部の上役の一人に嫁いで既に二児の母だ。  下の姉は十八で商家の幼なじみの家に嫁いだ。それがつい数週間前のことだった。  その祝宴の席で朱夏は初めて旅芸一座を観たのだ。  『花鳥風月』──知らぬ者はいないと言われる名うての一座。  その勇猛果敢な剣舞に肌が粟立ち、繊細で優美な楽曲に内震える自分がいた。  その楽舞は朱夏の心に焔を灯したのだ。 「……五年」 「五年したら宮妓の試験を受けに戻ります。適わなかったら、父様の言う通りに采家の為に尽力します」  宮妓見習いとして教坊に入れるのは十五歳からだ。持参金無しに教坊に入るには厳しい試験に合格しなければならない。試験突破は合格者を出さない年もあるというほどの狭き門だといわれている。    朱夏はまだ稚い小さな手をついて、頭を下げた。小さな身体がより小さく見える。  その姿に親心は心配に大きく揺れ動いた。 けれど、采家当主はそんな心などおくびにも出さずに、毅然として訊ねた。 「偽りなく、五年だな?」 「はい」 朱夏はより強い眼差しで父を見上げた。 「わかった。先の五年、お前は(さい)ではない。ただの朱夏だ。己の責任で道を拓きなさい」  隣で母が息を呑んだ。 けれど、もう反対は出来ない。 采家の当主が決めたことは絶対であり、それに助力するのが妻の務めだと心得ているからだ。  父が部屋を出ると、部屋には母と朱夏だけが残された。 「……」  母は複雑な面持ちでただ静かに朱夏を見つめていたが、朱夏が沈黙に耐え切れずに目を逸らすと、深く嘆息した。 「まったく…。あなたは何でも一人で勝手に決めてしまって……」  姉の婚儀の日の翌日、朱夏は旅芸一座『花鳥風月』に弟子入り志願を果たしていた。 「ごめんなさい、母様。でも、もう決めたの。私も前へ進みたい」 「私も?」 こくりと朱夏は頷いて、己の胸の内を吐露する。 「もやもやするの。ずっと心もとない感じ……。でも、だからって何をすればいいのか、したいのかわからないの」 「宮妓になりたいわけではないの?」 「それは、本当。私もあんな風にって、思えたもの」 本当は「宮妓でないとだめか?」と、言われればそうではない。  朱夏はひたむきに前を見て生きたかったのだ。だから、思い悩むよりもとりあえず、行動することにした。 始めたかったのだ。 けれど、まだ幼い朱夏ではそのすべてを言葉にはできなかった。
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