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剛地京介は回転椅子から腰を上げると、背もたれにかけてある薄いジャンパーを羽織る。ちらりと窓の外を眺めると、かすかに赤く染まる遠くの空と、その空めがけて飛んでいくカラスが見えた。京介は小さく伸びをしてから、部屋を出た。そして、早足に薄暗い廊下を進み、一段とばしで階段を上った。
二階の廊下に出ると、一番奥に金属製の扉がひとつ、立ちはだかっている。その扉には、『応用工学エネルギー研究室本部』と書かれた紙が貼られてあった。
京介は迷いなく、その扉に向かって歩いていった。その足音だけが、廊下の冷たい空気を震わせ、やがてどこかに吸い込まれるように消えていく。京介は扉の前に立つと、手汗をジャンパーで軽く拭って、ゆっくりと研究室に入った。
そこは毎度のことながら、薄気味悪い場所だった。部屋の奥は様々な機械類で埋め尽くされており、手前側には壁を覆い尽くすほどの数の棚に、研究用の薬品や書類などが乱雑に置かれている。部屋中央には机がいくつか設置されているが、そこもやはりほとんどが研究用具で埋め尽くされていた。
さらには窓が一つもなく、電気は天井の中央に一つだけ、おまけに夕方と来ているので、ひどく薄暗く、そのことが更に部屋の不気味さを醸し出していた。
そんな中、扉を開けてすぐの所に、大輔と蝶原は、何も言わずに立ち尽くしていた。彼らの視線は、部屋の奥の威圧感溢れる機械に向けられていた
「兄貴、来たか」
最初に大輔がこちらに気付き、そう言った。すると、その台詞が合図かのように、蝶原もこちらに顔を向けた。二人は神妙な顔でこちらの目を見て、小さく頷く。それを確認すると、京介も小さく笑って、頷いた。
「ようし、これで全員揃ったな」
部屋の奥から、耳がキンキンするような大声が響いてきた。そのばかに楽しそうな特徴的な声は、間違いなく霧森博士のものだと分かった。
霧森博士は机の影からひょいと姿を表すと、京介たちの方に目をやって、指をさして人数を数え始めた。
「いち、に、さん、と、あとは俺、だな。ハッハッハ、四人揃った。研究員全員集合だ。素晴らしい……。まあ、という訳で、事前に話しておいた通り、ついに今から、別世界への干渉プロジェクトを実行する。ちゃんとママに別れの挨拶はしてきたかい?ハッハッハ……」
霧森博士の笑い声は研究室に共鳴して、京介の鼓膜を震わせた。そして一通り笑い終わると、霧森博士はポケットに手を突っ込みながら、こちらに歩み寄り始めた。
「あー、では、一応格好つけて、実験の概要を今一度あらためて説明イタシマス。オホン……。えー、我々はこれより、革命的新エネルギー『魔術』を結晶化した、マジックキューブの力を開放し、コッチのせかいと別世界とを繋ぐ境目……ちなみに、ワタクシが世界で初めてその存在を発見イタシました……を可視化し、それを使うことで、全くの別世界への移動を始める。我々の研究が報われる日が、ようやくやって来たのだ!……ああ、それと、この実験は、大学側には秘密にしております。こんな無謀で、馬鹿げていて、狂っていて、天才的で革命的なことをしているのがバレてはいけないからです。この研究室を隔離別棟に確保したのも、この大学で特に優秀な、よりすぐりの秀才天才である3人だけを研究員としたのも、全ては情報漏洩を防止するためだったのです!」
霧森博士は両手を広げて、大きな声で叫んだ。その大声が建物の外に漏れる心配はしていないのだろうか、と京介は思った。
「ま、簡単に言うと、魔術という切符で別世界に旅立つってことだな。では続きまして、別世界で何をするのか?というテーマでお話しします……。オホン、えー……、我々が言う別世界というのは、まあ、石器時代とか、ヤヨイ時代とか、とにかくそれくらい非常に文明レベルの低い世界であるということが観測されました。そこで我々が開発した無限の新エネルギー、『魔術』を使うとどうなるか!……君たちも神話というものは知っているね。神様が現れて人々を救ったり、はたまた地獄に突き落としたりといった、そんな話だな。それが現実に起こるというわけだね。そう、我々がその神の役を務めるんだよ。ということは、我々がコッチの世界にいる限り絶対に出来ないようなことを、好き勝手やれる……どころか、文字通り世界征服も出来る訳だ!ああ、安心しなさい。約束通り、君たちは私の側近くらいにはしてあげるから。ハッハッハ……、他の者が聞いたら、幼稚で馬鹿げた考えだと思うだろうね。しかし、これは映画でも何でもない、現実なのです。我々の世界最高級の頭脳が生み出した、素晴らしき現実なのです!」
霧森博士は京介たちの目の前をウロウロしながら、一気にそうまくしたてると、机に立ててあったペットボトルの水をちびりと飲んだ。そして、機械の方に戻っていくと、かちゃかちゃと何か操作し始めた。
「まあ、そういう訳で、早速例のマジックキューブをお目にかけましょう……」
すると、部屋の奥の機械の一部らしき小さな金属の箱が、かちゃかちゃと音を響かせながら開いた。そして中から、不気味なほど真っ赤な光を発する、手のひらほどの大きさの立方体が現れた。例のマジックキューブらしいが、京介も直接見るのは初めてだった。
「ハッハッハ……。これくらいで驚いてもらっては困る。俺たち4人の叡智を結集したのだから、これくらいのものが出来てもおかしくないだろう?」
霧森博士は、キューブに赤く照らされた顔を歪め、終始楽しそうに笑いながら、機械を操作する。京介たちは、ただ呆然と、その様子を眺めていた。自分たちはこんなとんでもないものを作っていたのだということを、改めて実感していた。
しばらくすると、霧森博士はマジックキューブに手を伸ばし、先程ペットボトルを手に取ったときと同じ様子で、平然とそれを手にとった。キューブの光が、少し強くなった気がした。
「今俺がこれを手にしている瞬間、魔術の力は開放され、事実上俺は神になった……。分かるね?今このキューブと俺の思考は一体化している。神経が繋がっているようなものだ。俺の脳が『腕よ、動け!』という指示を出して、それが神経を伝わって実際に腕が動くように……」
霧森博士はそう言いながら、キューブを持っていない方の手をひらひらと動かした。
「俺の脳が『別世界との境目よ、現れろ!』と指示を出すと……」
そこまで言うと霧森博士は、キューブを持った手を奇妙に動かし始めた。すると、京介たちの目の前に、何かが現れ始めた。
そこにあったのは、大人の人間一人が通れるくらいの、『裂け目』だった。そこにあるはずの空気に、ポッカリと穴のようなものが空いている。その穴の奥には、ただ真っ赤なもやのようなものが広がっていて、どこか吸い込まれそうになる妖しさを感じた。
「ほら、こっちの世界に未練がないのなら、さっさと行くぞ。俺がミカドで、剛地兄弟は右大臣と左大臣、蝶原はダイナゴンだな。ハッハッハ……、まあ、何だ、そんなに怯えるな。向こうの世界は温暖で、残念ながらファストフードは無いが、ちゃんとした水も食べ物もある。地震が来ても風が吹いても、雪が降っても槍が降っても、おそろしいウイルスが降ろうとも、我らが最終兵器魔術がある。この裂け目をくぐれば、俺たちだけの理想郷が広がってると思うと、もういてもたっても居られないだろ」
霧森はキューブを手にしながら、わざとらしい足踏みを始めていた。こんな頭のネジがぶっ飛んでる奴が博士で、しかも、魔術とか別世界とか、漫画のようなことを実際にやってしまうのだ。
京介は何度も、この博士の狂気じみた天才ぶりに驚かされてきた。だからこそ京介は、この世界の裂け目とやらも、きっと本物なのだろうと確信していた。そして、裂け目の向こうが理想郷であるというのも、信用できる。
「いやあ、博士、素晴らしいです。博士を信じてきて本当に良かったです」
京介は笑顔の霧森博士に向かってそう言った。本心だった。
「ハッハッハ……、そうかそうか。いやいや、大臣方の力あってこその結果だからね」
「……ありがとうございます」
京介は大きな声でそう言った。そしてそれを合図に、大輔と蝶原は霧森博士目がけて走り出した。何度も練習したとおり、二人は素早い動きで霧森博士の両腕を掴み、動きを封じた。マジックキューブは博士の手を離れ、カランと音を立てて床に落ちた。赤い穴が、静かに閉じた。
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