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 霧森博士は何が起きたか分からないといった顔を、こちらに向けた。抵抗しようとする様子は見られない。だが、本番はこれからだ。京介は興奮を抑えて、交渉を開始した。  「魔術の力で別世界に行き、その世界を支配する。とても魅力的な話だと思います。ですが、一つ問題があります。それは霧森博士、あなたの存在だ。残念だが、あなたを理想郷には行かせない。」  そこまで言うと、やがて霧森博士は薄ら笑いを浮かべて、「なるほど」と呟いた。暗い研究室に、緊張が走る。  「分かったわかった。君たちのやろうとしてる事、全てわかった。つまり君らは、魔術の力に目が眩んだわけだ。右大臣でも左大臣でもダイナゴンでもなく、ミカドになりたいわけだ。ハッハッハ……、たしかに、俺は人間の欲というものを甘く見過ぎていたみたいだ。」  霧森博士は身体の自由を失ったまま、ケロリとした様子で笑った。  「分かってるなら話が早い。俺たちの目的は、そのキューブ、今床に落ちてるそれだ。余計なことはせずに、それをこっちに渡して貰いたい。」  京介はそう言うと同時に、ジャンパーのポケットからナイフを取り出した。三十センチほどの長さのある、アウトドア用のものだ。もちろん、大輔と蝶原も同じものを持っている。  「ハッハッハ……。そりゃそうだ。今からこの世界を去るんだから、傷害罪も殺人罪も無いわけだ、なるほど……。そうか、そうか、君らは賢いな……。分かった。こんなキューブよりも、俺だって命が惜しい。蝶原、大輔、その手を離してくれ。キューブを渡そう。」   霧森博士はため息混じりにそう言って、二人に目配せする。二人は少し戸惑ったあと、博士から手を離した。そしてすぐさまナイフを取り出し、博士の首元にあてがった。  霧森博士は腰を屈めてキューブを拾うと、それをこちらに向かってヒョイと投げる。京介は慌てて、ナイフ片手にそれをキャッチする。  「これで良いんだろ」  霧森博士はそう言うと、へなへなと倒れ込んでしまった。大輔と蝶原は、ちらりとこちらに目をやる。京介はにやりと笑って、小さく頷いた。キューブは間違いなく、俺の手の中にある。霧森博士の言葉を借りると、神になったのだ。  「よし、もういいぞお前ら、作戦成功だ」  京介は緊張を解いて、そう言った。蝶原と大輔もナイフを下ろし、大きく息をついた。  その瞬間、京介は、キューブを持つ手に僅かな違和感を覚えた。自分がキューブを握る力以外の、別の力が働いているようだった。何かがおかしい、と思ったと同時に、その謎の力はさらに大きくなった。  キューブに引っ張られている。  そう気付いたときには、キューブは京介の手を離れ、霧森博士の右手に吸い込まれてしまった。霧森博士の顔に、不気味な笑みが浮かんでいる。  「殺せ!」  研究室に、京介の叫び声が響いた。大輔と蝶原は慌ててナイフを構え、霧森博士に襲いかかる。だが、霧森博士はその手でがっしりとキューブを握ったまま、じっとうずくまっている。  刹那、部屋の真ん中で爆発が起きたかのような衝撃が、京介を襲った。ガラス類が割れる音、金属が金属に叩きつけられる音が、けたたましく研究室内に響き渡る。気付けば京介は、床に倒れこんでしまっていた。  一体、何が起こったのか。ナイフは、手から離してしまったようだ。冷たい床が、京介の体を包み込む。必死に考えようとするが、身体のあちこちに走る痛みが思考を妨害する。  「君たちの言うことも、もっともだ。しかし俺の考えは、その更に先を行っている。このキューブをホイホイと第三者に使わせる訳にはいかないもんで、最初から俺しか使えないようになってるんだ」  霧森博士は、いつもと同じような軽快な口調で喋り始める。京介はゆっくりと身体を起こし、霧森博士を睨みつけた。部屋は廃墟のように荒れ果て、蝶原と大輔はがらくたの上で倒れてしまっている。  「どのみち君たちは、向こうの世界で始末しようと思ってたんだ。神に背いた悪魔として吊るし上げでもしたら、確実に信仰を得られるだろうしね。ハッハッハ……なに、驚いてるね。秀才の君たちでも、俺の悪だくみに頭が回らなかったのは何故か、教えてあげようか。それは、俺がそういう計算で、オヒトヨシを研究員に選んだからだ。少なくとも、こんなふうに俺に歯向かって来そうにない奴をね……。だが、迂闊だったよ。やっぱり、どんなオヒトヨシにも欲はあるもんなんだな。向こうで人間を扱うときには気をつけるよ」  霧森博士は上機嫌でそう喋る。そこで京介は初めて、博士の右手から右肩にかけてが、真っ赤に染まっていることに気が付いた。  「……ん?ああ、この腕か。まあ、君たちには教えていない機能だからね……。簡単さ、キューブを取り込んだんだ。魔術を使うときに、いちいちキューブを持ってたんじゃ、面倒だし、格好がつかないだろう。だからこうして、身も心も魔術と一心同体になるわけだ。他にも、君たちに教えていないことは沢山あるんだが……何か質問はあるかい?なければすぐに……」  その続きの台詞は、大輔の咆哮にかき消された。大輔はいつの間にかむくりと起き上がって、ナイフで博士に襲いかかっていた。京介は一目で、彼が冷静さを失っていることに気が付いた。
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