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 しかしオレが腋の下を清浄にすべく手を伸ばすまえに―――。  ちゃぷーん、、、ちゃぷーん、とオレの背後の風呂の中に、腕を上下させ湯を掻く軽やかに明るい音がした。若い女だけが奏で、織り成すことができる雰囲気だ。一番風呂の透明な湯の中に透きとおるように白い腕。その上にあるのは無邪気な愛くるしい笑顔だろうか。それとも愛しいひとを想って沈思する、美しい憂い顔だろうか。そこまではわからない。 「あんた、あたしのこと食べたいくらい好きだって言ってくれたわね」  思いがけず勝気な(まるで江戸の女のような)大人びた声だった。いっしゅん魔法にかけられたような甘美な感覚に打たれたが、すぐに全身が鳥肌立った。どん兵衛から突き出た腕を思い出したからだ。しかしどん兵衛の腕の持ち主とは明らかに声が違う。いずれにしてもここには彼女のほかオレしかいないから、彼女が話しかけているのはオレだ。オレは女と親密な会話をもったことのない100%童貞男である。そしてこの銭湯は混浴ではないのだから、いま起きている事はただ事ではない。 「ぬふふふふふ」と女はオレの背後で笑った。「振り返るのがこわい?」  たしかにこわかった。幸運にも風呂椅子のまえの鏡はくもっており、かすかにぼんやりと女の姿を反射するだけだった。 「あたしの心臓の形、見ないの?」  オレの身体がおそろしいほど震える。なんてこと言うんだ、この女は。消えろ。  すすり泣きが聞こえる。女が風呂の中ですすり泣いている。しかし、すぐに泣きやんで、 「あんた、あんなにもあたしのこと好きだって言ってくれたのに。あんたがいま何を考えているのか、あたし、わかるのよ。消えてしまえ、って思ってる。あたしなんか死んでしまえってね。あの花火の日とおんなじ」  花火の日にこの女と? オレの一生の中に、そんなロマンチックな瞬間など一度だってあったものか! 「殺してやる、っていまも思ってる。激しい憎悪よ。あんたは憎悪のかたまりよ。あんなにやさしかったのに。あのまえまでは。あの花火の夜、あんたはあたしを殺した」  氷のような戦慄がオレのなかで爆発した。そんな殺しの事実などありはしないのに、女の声があまりにも真実味を帯びているのだ。 「もう殺せないよ」、女が氷よりも冷たい声で言う。「あんたは一度あたしを殺したんだから」 「ばかな!」オレは前を向いたまま叫んだ、「なんで殺したなんて言うんだ?! オレは殺していない!」そう言いながらもあまりにも気がかりな事実に気づいた。今日もそうだが、日雇い仕事に出かける前日には銭湯に来て、ゴシゴシしすぎるほど洗っている。とはいえ、洗っただけでアレがなくなるはずがないではないか。つまり、女でいうところの処女膜。つまり、童貞ならあるはずの童貞膜がオレにはなくなっているのだ。なぜそれに気づかなかったのだろう? 童貞膜がなくなっているということは、自分でも知らないうちにオレは童貞ではなくなっていたということだ。つまりオレの記憶には穴がありそうだ。あるはずだ。この女の話も、頭から否定するわけにはいかないぞ。  希望がもてる話じゃないか。オレが誰を殺したにせよ。つまりこういうことだ。オレは実は典型的なエリートで、殺しのショックかなにかで自分がわからなくなって(ジェイソン・ボーンみたいに!)、誰か他人の貧乏な六畳一間に間違えて住むようになり、どういうわけか自分が童貞だと固く信じ込んでいる、、、、  《人殺し》。いまのみじめな生活とくらべたら、人殺しだという認識は、爽やかな絶望だというべきだろう。  そうか、そうだったんだ。オレは人殺しなんだ。なにか思い出してきたぞ。そう、女の顔も振り向いて見るまでもなく、きっとすぐに記憶に浮かぶだろう。  見るまでもない。いったんここは引き下がろう。なにげない感じでここを出よう。記憶を掘り出さないと、足元をすくわれて大変なことになるかもしれないからな。  オレは立ち上がり歩き出したとたん、身体についたままの石鹸の泡に足をすべらせて、したたか頭を打ちつけた。死ぬかもしれないほ頭から血が吹き出ている。しかしその血しぶきも、昏迷する意識のカーテンのむこうに霞んでいく。闇となったオレの頭のなかに、風呂の中から女が言うのがおぼろげに聞こえた。 「あんたは確実にあたしが死ぬように、あたしの胸を裂いて心臓を取り出して、ああ、あの川に捨てたのよ! だから私の胸にあるのは心臓の形をした空洞――」  彼(蝿)はまだ、オレの腋毛にとどまっているようだった……
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