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ある夕刻、オレは日雇いの仕事にもあぶれ、じめっとした部屋のちゃぶ台に夕飯の準備をととのえた。夕飯といっても、熱湯を注いだどん兵衛が一つきり。その前に胡坐をかき、5分が過ぎるのを待っていた。すると、
「キスのお返しがほしいだけなの」女の声がするじゃないか。
とうとうオレも頭に来たのかと思ったね。神経衰弱のいきつく果てに来たんだと。だれもいるはずがないんだ。一人暮らしのぼろアパートなんだから。
「不思議じゃない?」また女の声がした。若い女だ。「あなたとわたしは人生の同じページにいるの」
「人生の、同じ1ページにいるのよ」女の声が繰り返した。「ほんとうに幸せ。でもあなたにもう一度会うために、こんな姿にならなければならなかった、、、」
オレは気狂いのように部屋のなかを見まわした。それでも女の姿は見えない。六畳一間なのに! ああ、やっぱりオレはもうダメなんだ。仕事だけじゃなく、正気すらオレには残っていない。そしてなけなしの金で買ったどん兵衛も、こうしてオレが狼狽しているあいだに最早のびのびになっているだろう。そのときある閃きがおこって背筋がバリバリの氷のように凍ってオレはバネのように立ち上がりカーテンの裏をのぞいた、死ぬ思いで。ほーーーーーっと息を吐いてオレはカーペットに座り込んだ。カーテンの裏には誰もおらず、ひびの入ったガラス窓のむこうにいつもどおり、みすぼらしい夕暮れがあるだけだった。いや、いつもなら気分を暗くする夕暮れた町がオレの気もちをあたためさえした。
「ここにいるのよ。ねえ、ここにいるのよ。わたしのキスのおかえしをして」また女がオレに話しかける。
オレはあきらめてその声とおしゃべりすることにした。女はどうせオレの妄想だ。オレの想像力が切れれば女も消えるだろう。
「キスっていうけど、オレ100%の童貞で、女の子と話すのだって今日がはじめてなんだよ」
沈黙が帰ってきた。
外ではヒグラシが鳴いているのだが、かえって室内の静寂が強調されるのだ。蒸し暑い部屋のなかで、気づけば汗びっしょりなのだが、じっさいの体感温度はゼロだ。
やっぱり女はこの部屋にいるのだ。いて、黙りこんでいるのだ。室内を見まわすのが怖かった。震える手でズボンのポケットからタバコの箱をとりだし1本ぬいた。最後の1本だ。苦労して火をつける。
「だから言わんことじゃない」がらりと口調を変えた陰険さで女が言った、「言わんこっちゃない。やさしいひとだと思って処女をささげてみればコレだよ」
このとき、声がどこから聞こえてくるのかオレにはっきりとわかった。
テーブルの上のどん兵衛だ。そうわかったとき自制できず見てしまった。どん兵衛のフタがめくれて女の腕と手がカップから出ていた。女はそんなふうに腕と手だけの無残な姿なのだ。オレは叫びながらバネように立ち上がり、
「これでガマンしてくれ!! オレにはもうこれしかないんだ!!」
タバコをとっさに女の手ににぎらせて部屋の外に走りでた。背後に、
「あつい!!」という女の絶叫が聞こえた。
火先をにぎらせてしまっていたのだ。
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