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蝿の使者
ぼんやりしていたのかもしれない。
蝿がまっすぐオレの右眼球めがけて飛んできたのに気づいたときには、蝿はオレの網膜にあたっていて、まるで酢をまぜたソーダをぶっかけられたように眼が痛んだ。片眼で泣くオレの頭のまわりを蝿はジェット機のような爆音でしつこく旋回し、ついには無抵抗に陥っているオレの汗くさい、塩の浮いたTシャツの首のところから入りこんだ。蝿の細い脚の不快な感覚に文字通り虫酸が走る。蝿はその脚で、思いがけないほど迅速にオレの腋の下に進んだ。オレの腋毛に居を構えたらしい。
最近のオレの人生のなりゆきから言って、いつかこんなことがオレには起きるだろうと思っていた。予感がありながら避けることができず、蝿はオレの腋毛を彼の巣とした。普通の蝿ではない。普通の蝿は住居を持たないだろう。蝿のことを「彼」と呼称するのは普通のことではない。しかしこの蝿は普通ではないから、オレはこのオレの腋の下の「住人」たる蝿を「彼」と呼んでしまう。
おお、オレの数少ない読者よ。この出来事をあなただけに語ろう。結局、あなただけしかオレの声に耳を傾けてくれはしないのだ。共感してくれるだろう、などという甘い夢想はない。しかし、あなたが聞いてくれるかぎりは、ここで語りつづけようと思う。
そう、あのときから彼(蝿)はオレの腋の下にいる。
翌日はひさしぶりに日雇いの仕事で郵便局の仕分けの作業に入ることになっていたので、オレは六畳一間のむさくるしい畳に立ち上がると、銭湯にでかかる用意をした。まだ夕方には早い時間で、まともな生活をしている人間が風呂にでかける時間ではない。しかしオレはまともな生活には無縁の人間であり、蝿を腋の下にしたまま部屋にとどまっているのが息苦しくもあった。郵便局の社員から体臭のことでキツく注意を受けたことがあり、それがトラウマでもあるので、実際的な理由からも銭湯には行かざるを得ない。俺は極限まで節約してかろうじて生きている身だが、自分の鼻も逃げ出しそうなこの臭い体では、作業現場から追い返されてしまうだろう。元も子もないではないか。
熱気が顔を殴りつけるような道を全身に汗をかき、服に塩を吹きながら青空の下、銭湯についた。
風呂椅子に座って、しつこくペニスを洗う。入浴機会の少ないオレとしては、臭いの最大の原因であるペニスおよび陰嚢を徹底的に清潔にする必要がある。包皮をむき亀頭が赤くなるまで石鹸でこすり、陰嚢を時間をかけて揉み洗いする。オレは衛生的な必要から、こどものときに保健体育で教えられた遣り方を、いわば個人的に改良してこのような洗い方をしているのである。しかしオレのそうした姿を目撃した人たちには純粋に衛生的な作業とは受けとれないらしく、オレは何件かの銭湯を出入り禁止となった。あの日、オレのペニスは『ナウシカ』に出てくるオウムくらい大きいな、と無意味なことを思いながら洗い、ふと顔を上げて見回すと、ガランとした銭湯内にはオレしかいなくて、空しさはひとしおだった。
次は二番目に臭い場所、腋の下。
腋の下にとりかかる―――。
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