いちご大福

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 教師になって十余年。俺は今、過去最大級の混乱に陥っていた。  部活動の指導を終えて職員室に戻ろうと靴箱の扉を開けたその時、俺の視界に飛び込んで来たのはピンク色の包装紙に包まれた直方体の紙箱だった。  一瞬の瞠目の後、俺は恐る恐る手を伸ばしてしっかりとした質量のあるそれを持ち上げ、その前面に並んだ「いちご大福」という文字列に全身から力が抜け落ちるのを感じた。  自身の好物ではあるが、それがなぜこんなところにあるのか。 「これは一体どういうことだ」  急ぎ左右を見るもののそこに人影はなく、しばらく紙箱片手に立ち尽くした。  このまま悩んでいてもどうしようもないので、俺はとりあえず箱を元の位置に戻し、靴を履き替え、何食わぬ顔で職員室に向かった。 ◇◆◇  パソコンとにらみ合いを続けることに時間。私は疲れを感じて目元に手を当てた。冬の寒さがようやく衰えだした二月半ばの空は既に薄暗く、窓の外には夕日で焼けた校門前の坂道がうかがえる。  ガラガラ……ゴンッ!  職員室の扉が開く音。それからすぐ後に響いた大きな音に、私は驚いて振り返った。視線の先では、数学教師の加藤友一が部屋に入ってすぐのところにある教員用机の横で足を抱えてうずくまっていた。  どうやら足をぶつけたらしく、顔は苦痛でゆがんでいた。  その後、彼は再び立ち上がって歩き始めるが、今度は向かい側の机に高く積まれたプリントに肘をぶつけ、床にまき散らしていた。  手伝いに入った近くの席の教師に頭を下げる彼をしばらく眺めてから、私は自分の机に向き直った。 (動揺……している?)  冷静沈着さが売りの彼が珍しく慌てている姿を横目にとらえながら、私は心の中でガッツポーズを決めた。 (効いている!)  ◇◆◇  職員室の人影が減ってきたところで、俺は決意と共に帰りの準備を始めた。向かうは靴箱。諸悪の根源に対峙するのだと、俺は扉に肩をぶつけながら職員室を後にし、勇み足で廊下を進んだ。  靴箱の中身を目にしてから、今日は散々だった。机に脚をぶつける、プリントをばらまく、部数以上のコピーをする、作りかけのテスト問題のデータを消去するなど、ミスの連続だった。  疫病神に匹敵するアレに一歩一歩近づいているのだと、俺は鼓動が少し早くなるのを感じながら歩みを進める。  金曜日の夕方。生徒たちの声が聞こえなくなった暗い廊下にもの悲しさを覚えつつ、俺はたどり着いた靴箱の前で深呼吸をした。 「よし」  力を込めた手を取っ手に伸ばして勢いよく扉を開けば、先ほど同様いちご大福の箱が靴箱下段に鎮座している。ピンクの箱としばらくにらみ合った後、俺はついにその手にいちご大福を収め―― 「どうかしましたか?」  突然近くから響いた声に、とっさに俺はもう一方の手に持っていた靴袋に紙箱をしまった。ホッと一息ついてから何食わぬ顔で視線を上げると、そこには同じ高校二年生担当の英語教師である渋沢藤花がやわらかい笑みを浮かべて立っていた。  ◇◆◇   (ふふ、慌てているわね。)  戸に肩をぶつけながら職員室を後にする彼の足音を聞きながら、私はひそかに笑みを浮かべた。それから開いていたパソコンの電源を切り、鞄を片手に彼の後を追った。  靴箱の前で立ち尽くす彼の姿が目に入り、私は廊下の突き出た壁の陰に隠れた。しばらくすると彼は勢いよく扉を開き、中のものをつかんだ。  そのタイミングで私は素早く、されど足音を殺しながら飛び出し、はやる気持ちを抑えてそっと彼に声をかけた。 「どうかしましたか?」  私の声にびくりと肩を震わせた彼は、それから素早く手を動かした。  けれども私の目にはしっかりと、ピンク色の物体が彼の手元にある袋に入っていくのが映った。 「何か?」  押し殺した低い声が響いた一方、彼の瞳はせわしなく揺れ、動揺しているのが一目瞭然だった。  その可愛げのある様子にほおが緩むのをとどめつつ、私は言葉を重ねた。 「少し前からあちこちに体をぶつけていらしたので、何か問題でもあったのかと心配になったのです。ひょっとしたら足を怪我されていませんか」 「体をぶつける……」  しばらく思い悩んでから、彼は「ああ」と声を漏らした。動揺のあまり、先ほどまでの失敗の数々が頭の中から抜け落ちていたようだ。 「勢いよく足をぶつけていらっしゃったようですが、大丈夫でしたか?」  原因を作った私が白々しく尋ねると、彼はその姿が自分を心配する優しい同僚のものに映ったらしく、後頭部に手を当てながら申し訳なさそうに頭を下げた。 「ご心配ありがとうございます。けれども大丈夫ですよ。そんなやわな体はしていませんから」  週末はジムで体を鍛えているという彼の体躯には、確かにしっかりと筋肉がついており、180 cmを超える身長も合わさって非常に頑丈そうに見える。  私の心配など何のそのといった様子でほがらかに笑う彼の姿を見て、私は今更ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになった。  これじゃあ他人を陥れてその不幸を笑う悪女じゃない……。  ◇◆◇  彼、加藤友一と初めて会話をしたのは、昨年の六月だったと思う。  同じ学年を担当する間柄ではあったが、ちょっとしたタイミングのずれから、私たちが直接話をする機会はなかなか訪れず、二か月ほどが経過したのだ。  その日、私の前に授業を行った彼が教卓の上に忘れて行ったバインダーを届ける際、彼に声をかけた。 「忘れ物ですよ」 「ああ、ありがとう」  職員室の自分の席に座る彼とそんなささいな会話をして、自分の机に向かおうと視線を動かし——そこで彼の机の上に置かれたスマートフォンに目が吸い寄せられた。  薄ピンクの地に三日月とそちらへ手を伸ばす黒猫。アスリート並みに鍛えられたからだといかつい相貌に反して、非常にかわいらしいケースだと思った。  その体躯からは想像もできない数学教師というギャップも相まって、それから私は彼に興味を持つようになった。  ◇◆◇  体の無事を尋ねる渋沢先生に礼を言い、俺は手元の袋をぎゅっと握りしめた。 (大丈夫だ。箱をしまう所を見られてはいないはずだ。) 「……あら、上履きを持ち帰られるのですか?」  不自然に力がこもった手に気が付いたのか、渋沢先生は俺が手に持っている靴袋について尋ねてきた。 「ええ、明日は家の近くの公民館で町内会の集まりがあるので必要になるんですよ」  手に力を込めてしまったことに若干後悔しながらも、俺は靴袋に上履きを入れて見せる。食べ物と履物を同じ袋に入れてしまったことに気が付いたが、行ってしまった以上致し方ない。  それよりも考えるべきは、靴のサイズに合った袋では靴と紙箱を両方入れることはできず、上履きが半分近く飛び出してしまっていることである。  俺の行動に渋沢先生が若干眉をひそめたことには気付かず俺はとっさに口を開いた。 「これは、その……」  慌ててしどろもどろになる一方、俺は心の片隅で、どうして言い訳を考えているのだろうかと不思議に思った。  靴箱にいちご大福が入っていた。  突拍子もない話ではあるが、事実である。  別に犯罪の証拠を隠蔽しようとしているわけでもないのだし……と俺が考えていると、 「大丈夫です。分かっていますから」  渋沢先生はそう口にして、それから数度首を縦に振ってみせた。  変な誤解でもされたのかと俺が弁明しようと口を開いたところで、 「誕生日プレゼントですよ」  ほんのり赤らんだ顔でふっとほほえんでから、渋沢先生は靴を履き替えて颯爽と立ち去った。 「……はい?」  思わぬ言葉に、俺はただ茫然と立ち尽くした。  ◇◆◇ 「はあぁ、やっぱり慣れないことはするものじゃないなぁ」  私は自宅のベッドの上で愛用まくらを抱きかかえて転がっていた。  今日は加藤友一の誕生日であった。  かわいらしいスマホケースを見かけて以降、何かと彼に視線を引き寄せられていた私は、気が付けば彼のことが好きになっていた。  いかつい顔を時折緩ませて見せる柔らかい笑み。  かわいい品や甘いものが好きなこと。  彼の見せるギャップに私は毎度心を動かされた。だから、今度は私が彼の心を動かしたい。  そんな思いを抱いてすぐ、私は彼の誕生日が近いことを耳にした。  プレゼントにさんざん悩み、私が選んだのは彼が好きだといういちご大福。情報を耳にしたのが宴会の場であったために少し不安だったが、動き始めたのだから最後までやりきろうと決意した。  恋心を抱いてもそれを心の内にしまっておくばかりだった私が、初めて自分の恋に向き合ったのだ。  多少の不安もミスも、どんと構えて流してしまえ……と意気込んではいたが、改めて考えるとどうかと思うプレゼントの受け渡しだった。現在後悔の真っ最中だ。  私の恋愛経験など、小説や友人のはなしで聞きかじった程度。靴箱に告白の手紙という場面を頭の中に浮かべた私は、それをいちご大福で実践したのだが、やはりおかしかったのだろう。  動揺で体をぶつけて痛い思いをさせてしまったことが彼に申し訳ない。 「あああぁ……」  布団に顔を押し当てながら、私は心の中で必死に祈った。  どうか、彼に嫌われませんように――。  ◇◆◇  家に着いてもずっと別れ際の彼女の言葉が頭の中をめぐり続けた。  帰りの電車の中で靴袋から鞄に移していたピンクの箱を机の上に出し、しばらくにらみ合った後、そして俺はようやく状況を理解し始めた。  靴箱に入っていたコレは誕生日プレゼントであり、おそらく渋沢先生からのもの。  そこまではいい。  だがやはり分からないのは、なぜ靴箱に入っていたのかという点だ。  俺は渋沢先生の奇行、いやこの表現は失礼か、とにかく彼女の行動の真意をはかり損ねていた。 「……訳が分からん」  俺はとうとう考えることを放棄して、机の上の紙箱の包装を無心でほどき、いちご大福を口にした。 「甘い」  疲れ切った脳に染み渡ったあんこの甘味、それから噛むほどに柔らかい甘さが広がるもち。その味は、今までにない極上の味に思えた。  ◇◆◇ 「……というのが、父さんと母さんのなれそめだな」  加藤家の居間の一角。瞳を爛々と輝かせて話に聞き入る少女を横目に、頬のほてりをおさめようと、俺は「ふう」と息を吐いた。  娘の翠に俺たちが出会ったころの話を聞かれ、逃げた藤花に代わって翠の標的となった俺はしぶしぶ口を開き――そして現在。  娘の頼みを断った本人はというと、俺と翠から少し離れたところで耳を押さえ、顔を両ひざと胴の間にねじ込んだ三角座りの姿勢でうずくまっていた。  ちらりと見える頬は真っ赤で、頭から立ち上る湯気が目に見えるようである。  「大福事件」と俺が密かに読んでいるあれからしばらくした後、俺は藤花に告白されて恋人になり、結婚し、子供を授かり、と順調に歩みを進めていた。  少し初心で、けれども時々思いもよらぬ行動を取って迷走を始める藤花は、俺の最愛の人だ。  話に出てきたいちご大福をせがむ娘といまだ顔が赤い妻とのやり取りを聞きながら、俺はそっと台所へ移動して、戸棚からあの時と同じ薄ピンク色の包装紙に包まれた紙箱を取り出した。  昔と変わらない味を楽しみながら、俺は愛する家族とのひと時を過ごすのだった。
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