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市場を出ての帰り道、人気のない通りでヘレナは不意に呼び止められた。
女が包みをヘレナの腕に押しつけ、今にも消え入りそうな声で云った。
「お母さんと食べて」
包みの中は、季節外れのシュトレーンだろう。
この前の精霊降誕祭の日も、ヘレナは女に同じものを渡された。
レーズンがたっぷり入りラム酒を効かせたシュトレーンは、ヴェルナーの好物だった。
村外れの丘を女と歩いた。
片足を引きずる女の歩く速度は遅かったが、ヘレナは女に合わせてやった。
低く連なる丘には、下草が風に揺れ、点在したオークの緑が目に鮮やかに映った。
遠くフライブルンゲン教会の尖塔やベアホルデの紡績工場の巨大な建物が見え、その奥に黒い森が魔物のように蹲っていた。
ヘレナの誘いに戸惑いの表情を隠せない女だったが、黙って付いてきた。
ヘレナが腰を下ろすと、女も同じように座った。
「あの詩を暗唱して」
女は何も答えない。
ヘレナの視線は尖塔に注いだままなので、女の表情はわからない。
「ヴェルナーの好きだったあの詩よ」
ややあって、低く掠れた声で女が詩を暗唱した。
女の詠む詩の文言が、所々自分の記憶しているものと違うことに気がついた。
果たしてヴェルナーが間違えて覚えていたのか、それともヴェルナーの方が正しいものなのか、ヘレナにはわからなかった。
女は、村の外れにある旅籠の若い女房で、村でも如才無くふる舞う現実主義者のあるじとは対照的に、いつも夢見がちで詩を愛する静かな女だった。
ヴェルナーとの密会発覚後、あるじにこっぴどく殴られた顔の痣を隠すようにスカーフで覆い、痛めつけられた足を引きずり、市場で買い物をする女の姿をヘレナは時々見かけた。
ヴェルナーが義勇軍に参加したのも、女との密会が発覚して村にいられなくなった事が原因だと、初めは女を激しく憎んだ。
二十三歳の若さで、遠くベルリンの地で赤軍兵士の銃弾に倒れた兄。
送り返されてきた私物には、ヘルダーリンの詩がしたためられたノートが入っていた。
ヴェルナーが好きだった詩は、やはり女に教わったものだったのだろう。ヴェルナーは女との出会いで、今までは立ち止まって見ることもしなかった、何か大切なものに触れることができたのかもしれない。
風に乗って教会の鐘の音が微かに聞こえた。
午睡に眠ったような村も、これから夕餉の支度で忙しくなる。
「もう帰らないと」
女の囁くような声がしても、ヘレナは動かなかった。
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