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初めて印が返された日から、ひと月ほどが過ぎていた。
早朝、いつものように修道院の中庭を歩いていると、黒塗りのメルツェデスが宿舎前に駐まっているのに気がついた。
中には誰も乗っていない。
車でやってきた者は、明らかに宿舎内に入っていると思われた。果たして呼び鈴を鳴らして良いものかどうか、ヘレナが躊躇していると、思いがけず扉が開き中から男たちが出てきた。
ヘレナは思わず後ずさる。
男たちと、その後ろから野良着のハンスが出てきた。
その一人は、仕事の世話をしてくれたグラーブルグのお役人だったが、ヘレナに気づいても何も云わなかった。
他の男たちは、髪を香油で撫で付け、寸分の隙もないような黒い背広姿で、学者か政府のお役人のように見えた。ハンスはヘレナにいつも見せる高圧的な態度は影を潜めていて、男たちにしきりに恐縮しているのがありありと見て取れた。
好奇心に駆られるまま、ヘレナが男たちの顔を順繰りに見ていくと、金髪碧眼の男たちに混じり一人だけ東洋系の顔をした男がいるのに気がついた。
こんな田舎で東洋系の人間など珍しい。
しかし、顔つきこそ違えど、東洋系の男もまた知識人の風情だった。
男たちはそのまま無言でメルツェデスに乗り込むと、砂埃を残して走り去っていった。
車が見えなくなるまで見送っていたハンスは、不機嫌な顔をヘレナに向けると無言で顎をしゃくり、建物の中に入っていった。
普段は不遜に振る舞うくせに、権威に阿る自分の姿を見られたのが気に入らないのだろう。
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