第一部 マレンブラウ修道院

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 橋を渡りきると、広大な黒い森(シュヴァルツヴァルト)がまるで自分に襲いかかってくるかのように目の前に迫っている。  初めてこの森を前にすれば、大の男でも足を踏み入れるのを躊躇するだろう。  騒々しく囀る小鳥たちが樹々の間を飛び回り遊んでいる。  鬱蒼と茂るモミの森の中に、ようやく昇ってきた朝陽が枝の合間から光を放ち、筋を作っている。  それは、夜のうちに跋扈していた邪な精霊を、暗い地下世界へと追い払ってくれるかのように、力強く生命の輝きに満ち溢れていた。  ヘレナは梢を渡る風を受けながら、半ば無意識に詩を口ずさみ歩いていた。  兄のヴェルナーがよく暗唱していた詩だ。  ヴェルナーはことある毎にその詩を口ずさむものだから、ヘレナもそらで云えるほどになっていた。  詩はシュヴァーヴェンのヘルダーリンという詩人の作で、ヴェルナーがいうにはヘルダーリンは家庭教師をしていた家の奥様と懇ろになり、後に死んでしまう奥様の死を悲しみ自分も後を追うように死んだという。  その頃はまだヴェルナーが抱えていた秘密などヘレナは知るよしもなく、その話を聞いても汚らわしい感想しか抱かなかったが、兄は何か逃れられぬ運命を予感していたのではと今は思う。  優しかった兄。  ヘレナが幼い頃に父親は病で亡くなっているので、10歳年上のヴェルナーが父親代わりだった。  村を出て帝都アレマニアで義勇軍(ライフコール)に参加したヴェルナーが、赤色戦線との衝突で戦死したのを知ったのは、同じ部隊にいたという男からの手紙からだった。  あまりに突然のことで心の整理が付かず、ヘレナは嘆き悲しみ、ヴェルナーが村を出ることになった元凶である女を憎む事しかできなかった。  荒れ果てた山道をヘレナは慣れた足取りで登っていく。  村人もこの道はめったに通らない。  ヘレナの息が弾み、額に汗が滲む頃に、ようやくマレンブラウ修道院が見えてきた。  空を覆うほど生い茂った樹々の間から見える建物は、所々崩れており、かつて大勢の修道士たちが暮らした面影はもはや無い。  18世紀の初めに閉鎖され廃墟となった修道院は、長い年月の間荒れるに任され、更には村人の禁忌の対象となり、未だにここへ近づく人はいない。  それは、呪われた修道士たちによって、反キリストの儀式が行われた場所として恐れられているからだ。
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