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 最初は、この部屋に監禁されているのは、罪人か狂人だと思っていた。  囚われ人が言葉を発せず、部屋が静寂なのは規則(リーグル)に縛られているからだと思った。  しかし、こんな太陽の光も射さず、沈黙が支配した暗黒の世界で、果たして人が生きていけるのだろうか。囚われ人は、ヘレナがこちらの部屋の処置をしている時は隣にいるらしい。  重い樫の木の扉は固く閉められており、窓も何もないので隣の部屋の様子は窺い知ることはできない。しかし、そうはいっても、人がいるのなら少しくらいの気配がしてもいいはずである。  ただ、食べ散らかした食料の残りと、おまるに溜まった排泄物や汚れたシーツで、人の営みを感じるだけであった。  この仕事を始めてもう数ヶ月が経つが、自分が何の世話をしているのか、男なのか女なのか、まったくわからなかった。  あるいは人ではないかもしれない、そんな考えまで沸き起こってきてしまう程だ。  ハンスは勿論のこと、仕事を世話してくれたグラーブルグのお役人も、この仕事の規則(リーグル)の説明と給金の手配をしてくれただけで何も教えてはくれなかった。  少し離れて扉を丹念に観察する。  大丈夫。  よほど近くに寄って子細に見ないと、たかが蝋燭の明かりでは、古ぼけた扉に残った痕跡などわからないだろう。   また同じように印を刻んでみたい衝動に駆られるが、ここは我慢する。  この大不況のさなか何の取り柄もない若い娘に、定期的な収入をもたらしてくれるこの仕事を、決して失ってはならないことはヘレナもよく承知していた。  扉に泥で(アンタレシュリフト)を付け、意思の疎通を図る事もただの思いつきだった。  しかし、若いヘレナに芽生えた好奇心は、日々大きく膨らんで自分でも制御が効かなくなってきていた。  今まで何回か試したことがあったが、いずれもヘレナが付けた泥の線が蝋燭の明かりに浮き上がるだけで、何の答えもなかった。  そして、今日、予感通り初めて答えがあったのだ。  ハンスや役人にこの行いが露見する恐れよりも、息を潜めて隣の部屋に存在する何ものかと意思の疎通が取れた喜びに、ヘレナは興奮して身体が震え、平静を装うのに多大な努力を強いられた。  食事を終わったハンスは、椅子にだらしなく座り眠そうな目を瞬いていた。  空のバスケットと汚れ物を入れた柳行李を抱えたヘレナを見ると、ハンスは無言で扉に鍵を掛け、元来た階段を先に立って昇り始めた。
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