パティシエ、怪異の町へ行く 1

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パティシエ、怪異の町へ行く 1

 天竺(てんじく)蒼衣(あおい)が立ちすくむそこは、あまりにも不思議で不気味な場所だった。  用を足して、イベント準備の会場――(ともえ)市産業振興会館大ホール――に戻ったつもりだったのだが、ドアを開けたそこは、見知らぬ厨房だった。  調理台の上には、新鮮な材料が置かれている。未開封の製菓用薄力粉や、グラニュー糖、卵、業務用バター。もちろん、製造に必要なボウルやホイッパー、業務用ミキサーやオーブンも、まるでずっとそこにあったような様子で存在している。  予想もしなかった出来事に、蒼衣は慌てて目にとまった部屋のドアに手をかける。  が。 「うそ」  蒼衣の顔から血の気が引く。大の大人一人なら簡単に開くはずのドアは、力をいくら入れてもびくともしないのだ。  閉じ込められたと理解したそのとき、どこからか低い声で「作れ、作れ」とささやく声が聞こえてきた。  もちろん、厨房の中には蒼衣以外のひとの姿はおろか、気配すらない。  そこでやっと、ほのかに魔力のようなものを感じた蒼衣は、これはなにかしらの不思議な現象なのだと気がついた。  魔法菓子職人になってからは、なにかと不思議なことが起こるのは日常茶飯事になっている。おまけに、ここはいつもの愛知県彩遊(さいゆう)市ではないことを思い出し、蒼衣は大きな深呼吸をした。  まずは、自分が落ち着くこと。そう自分に言い聞かせた。 「……もしかして、これって美郷(みさと)くんの言ってた『特殊自然災害』?」  夏の暑い盛りのはず――だからこそ、足下から冷えるような感覚を味わいながら、蒼衣は覚え立ての単語をひとりごちた。  ここは、広島県巴市。三つの川が文字通り巴を成す、北部にある中心都市だ。  愛知県名古屋市――の隣、彩遊市で『魔法菓子店 ピロート』を友人の(あずま)八代(やしろ)と営むパティシエ・蒼衣がなぜ巴市にいるのか。  以前、偶然にも魔力含有食材になってしまった広島レモン『サンダーレモン』。それを融通してもらったのがきっかけで知り合った、巴市役所勤めの青年・宮澤(みやざわ)美郷(みさと)から、市主催のイベントについて相談を受けたのが事の始まりだ。  巴市は土地柄『特殊自然災害』という妖怪や霊などの「もののけ」が起こす怪異トラブルの多い街だという。美郷はそれらを防止・処理する市役所の部署『巴市役所総務部危機管理課特殊自然災害係』通称・特自災に所属する技術職員――現代の公務員陰陽師である。  件のイベントは『夏の妖怪フェスティバル』と題されたお祭りだが、そこで秘密裏に行われるのは、仏教の法会、施餓鬼会(せがきえ)だ。  施餓鬼会とは、飢え苦しむ生類や無縁の霊に、飲食物を供えて経を読む供養のことだ。今年の巴市は、例年よりも特殊自然災害が多く、対策の一つとして施餓鬼会が提案された。  その際、怪異トラブルで市民が不安に陥らないよう「不思議なもの」でカモフラージュすれば良い、という意見が出た。  問題はその「不思議なもの」をどうやって自然な形で演出するか。そこで美郷がサンダーレモンの顛末を思い出し、魔法菓子――ピロートに白羽の矢が立った。  菓子屋の夏は閑散期であり、比較的手の空く状態であること、なによりもサンダーレモンを始めとした、魔力含有食材の豊富な巴市とのコネクションを結べることが、ピロート参加の決め手になった。  かくして、店長の八代とシェフパティシエの天竺蒼衣は、三日間店を閉め、はるばる巴市までやってきたのだが。   ::: 「おっかしーな。またあいつ着信に気づいてないのかな」  イベント会場である振興会館内。職員との打ち合わせからブースに戻ってきた八代は、スマートフォンを片手につぶやいた。  画面は「天竺蒼衣」への発信になっている。これまで五回コールしたが、一向につながる気配がない。  蒼衣は機械に疎く、三十二歳になった今でもまれに携帯電話を「携帯」することすら忘れる人物であることは、付き合いの長い八代もわかっている。  席を外している間に、蒼衣が忽然と消えた理由に見当がつかず、八代に一抹の不安がよぎる。  姿を消してから、もう一時間が経過している。用を足すにしては長すぎるし、なにか用事ができたのなら、書き置きやメール、せめて周りの職員への伝言は必ず残す生真面目な性格なはずだが、それすらない。  会場に居る職員に聞いても、一時間前の――つまり、八代が席を外す前の情報しかわからなかった。  いつもの場所(彩遊市)ならさほど心配はしないが、ここは怪異の街・巴市である。八代の脳裏に、知り合いである拝み屋の言葉がよみがえった。 『お二方がコッチに来るのはいいんだけどさ。なんつーの? なんかしらの力はあるけど、ああいうのに慣れてねぇ奴は簡単に『連れて行かれる』ぞ。八代サンはともかく、相棒のおキレイな職人さんは要注意だ。ま、陽の気が多いアンタが側にいれば、そうそうそんなことはないと思いたいがね』 「……魔力がわかるからって『特自災害』に早速巻き込まれるとか、勘弁してくれよ、パティシエくん」  お人好しな顔のシェフパティシエを思い浮かべ、八代は未だ繋がらないスマートフォンを後悔と共に握りしめた。    ::: 「ええと、このフルーツ、使えばいいのかな?」  誰も居ない空間に向かって話しかけるのが滑稽だとは思いつつも、なにかしゃべっていないと、蒼衣の気持ちは持たなかった。  調理台の上には、材料の他、新たにフルーツが出現していた。  レモン、ピオーネ、いちじくに梨。どれもこれも、みずみずしく、一番状態のいいものばかりな上に、魔力を感じる。  つまりは、魔力含有食材。  レモンはサンダーレモンなのだろうが、他は初めてのものばかりだ。このときばかりはずっと感じていた気味悪さを忘れてしまう。 「どれもすごく面白そうだねえ」  ピオーネは広島県内でしかお目にかかれないという、あのトップブランド品だろうか。あふれんばかりの果汁と、芳醇な香り、そして独特のコク――ワインにすればよくわかるらしい――を生かすにはどうしたらいいだろう。触ってみれば、師匠ほどはっきりと「声」を聞くことはできないが、そのまま食べろと主張するようなプライドの高さを感じられる。 「あなたはタルトがお似合いですよ、女王様。ぴったりの従者(クリーム)で飾って差し上げましょう」  少しおどけた様子でピオーネに話しかければ、空気が少しだけ和らいだ気がした。 「他は――」  サンダーレモンは、以前氷琥珀に使ったことがある。独特の刺激を生かして、今度はケーキのアクセントに使うジュレにしてみたい。  いちじくはそのままでもいいが、できればドライにしてうま味を閉じ込め、パウンドケーキにするのもオツなもの。そのときは是非、ピオーネで作られた赤ワインで煮込みたい。なんならジャムにして、甘さと同時に食感を味わうのもいいだろう。  梨はいっそのこと、カットした生の果実と、酔うような香りを残したコンポート、二種使いのショートケーキに仕上げても美味しいだろう――。  泉のようにわき出てくるアイディアに浸っていたが、自分の置かれた状況を思い出してはっとする。 『作れ、作れ。美味い菓子を早う作れ』    姿無き声が蒼衣を急かす。夢想に浸っている場合ではなかったことに気がついて、戸惑いながらも小麦粉とバターに手を伸ばした。  つい先ほどオーブンに入れたばかりのタルト生地は、一分も立たぬうちに焼成完了の音が鳴った。  おそるおそる確認するが、それは店で作るそれと寸部変わらぬ出来映えだ。  試しにと、焙炉にいちじくを入れればものの数秒でドライいちじくができあがった。いつの間にか現れた赤ワイン――ラベルを見れば、巴市にあるワイナリーのものだ――で煮込めば、あっという間にワイン煮が完成する。  他も同様で、ジェノワーズもクリームも、常識外れの早さでできあがっていく。気づいたら次の行程ができるというような状態だ。  ピオーネとサンダーレモンジュレのフレッシュタルト、ドライいちじくのパウンドケーキ、梨のショートケーキ。  作業台に並んだケーキを眺め、蒼衣はほう、と息をつく。 「すごいなあ」  普通ならば数日かけて仕込むはずのお菓子が、瞬く間にできあがってしまった。これも怪異の力かと驚くと同時に、蒼衣は思うままのお菓子を作れてしまったことに、単純な快感すら感じてしまっていた。ここにいれば、いくらでも、どんなお菓子でも作れるだろうと。  しかし、ふと手に触れたポケットの、固い感触で我に返る。そこには、長年愛用している折りたたみ式携帯電話がある。八代からの連絡はあるのだろうか。長いこと姿を消している自分を探しているのではないだろうか。  携帯電話を取り出し、開こうとした矢先、また声が振ってきた。 『早う、早う』  画面の確認すらできず、慌ててポケットに携帯を滑り込ませた。 「これでいい……ですか?」  遠慮がちにささやく。すると、ケーキたちが一瞬で消えた。盛り付けた皿だけがぽつねんと残されているのを見て、蒼衣はそっとドアに手をかける。  これで帰れる。そう思ったのもつかの間だった。えっ、と戸惑う声が蒼衣の口から漏れる。  ドアは固く閉ざされたままだった。青ざめる暇もなく、叩きつけるような声が響いた。 『もっと、もっとだ。作り続けろ!』  再度響いた声は、明確な怒気を含んでいた。 「お……お願いです、僕を帰してください。仕事が、あるんです」  馬鹿正直に頼んでも無駄だとはわかっていても、言わずにはいられなかった。ドアにかけた手にも力を入れる。 『はて、おかしいな』  しかし声は、心底不思議そうな様子になった。 『わたしは知っている。おまえが、このうつしよから逃げたいと思っていることを。自分とは違う理屈で生きるひとが住む、居場所のない世界から』    先ほどの怒声とは打って変わって、いやに優しい声に、蒼衣ははっと息を飲んだ。  うつしよ。現世。つまりはこの世。  蒼衣の心の奥底にいまだくすぶり続けている、負の感情を言い当てられた。  あの頃、何度逃げたい、消えたいと思っただろうか。家に引きこもっていたときも、長野で死のうと思っていたときも。  他人の目が、言葉が、存在が。まるでナイフのように思えた。普通にしていればなんでもないことでさえ、不用意に、過剰なくらいに傷ついてしまった。  好きなものだけに囲まれて生きられたらどれだけ幸せだろう、と、何度妄想に耽っただろうか。  しかし、つい一年前に、改めて自分の中にある魔物との共存を選んだはずだったのに。決して他人に見せない心の隙間に滑り込まれたような心地になって、蒼衣の手から力が抜け、ドアから体が離れる。 「……僕、は」  瞬間、頭がぼんやりとし始めた。酒を飲んだときのような、ふわふわとした酩酊感に似ている。先ほどまで感じていた恐怖や不気味さがどこかへ行ってしまったようだった。前をまともに見ることができず、うなだれる。  ここなら好きなだけお菓子が作れる。おまけに不思議な力で、手間の掛かる行程もあっという間に終わる。きっと材料も道具も、なにもかもが思うだけで出てくるだろう。  店の経営も、材料費も、そして時間もなにも気にせず没頭できる場所で。自分のお菓子を確実に求めてくれる存在がいる。  しかし。  ふと、頭にひっかかるものがあった。  自分のお菓子を求めてくれるのは、はたして本当にあの声だけなのか。  どこか、とても自分に近い存在が、自分の作るお菓子を欲してくれていた気がする。 それだけではない。確かに自分は自分だけの世界に行きたかった。だが、それでも自分は戻りたいと思っていた。戻らなければと。  それはきっと、現世(いきるせかい)に自分の居場所があるからだ――その結論に至った瞬間。  なにかをぱんっ、と叩くような音が響き、空気が変わった。それが鋭く手を叩いた音だと気づいたそのとき、ドアが開いた。 「蒼衣さん!」  名前を呼ばれ、顔を上げる。ドアから勢いよく現れたのは、長い黒髪をなびかせた端正な顔立ちの青年――宮澤美郷だった。
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