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【第一章】1.戦の足音
「行ってきます!」
母親に料亭へと持っていくように事告げられた仕出しの料理を風呂敷に包み、小料理屋を出た。
ここは京の一角にある、旅館や食事処が軒を連ねる賑やかな通りだ。
店先にいるご近所さんと挨拶を交わしながらその通りを歩いていると、何やら町民の噂話をする声が耳に入ってきた。
「え、それはほんとうなのかい?」
「あぁ、尾張へ訪れた行商人が言ってたんだ。ちげぇねえ。信長がまた大きな戦を始めるらしい」
戦という単語に過剰に反応してしまった私の背筋にひんやりと冷たいものが走る。
時は戦国だ。各国の男たちが天下人を目指し凌ぎを削るこの戦いの時代に、悲しいかな戦というものは彼らの願望をを果たす唯一の手段だった。
父は戦に駆り出されて戦地へと赴き、そして5年前についに還らぬ人となっていた。
噂話を耳にし戦で命を落とした父のことが脳裏によぎって思わず胸が痛んだ。
気が沈んでしまいそうになったが、地面へ落とした顔を上げ、かんざしを抜き取りもう一度結髪へと挿し直す。
お客さんの元へ向かうんだから暗い顔をしていてはお客様に失礼だと私は自分に気合いを入れ直した。
勢いよく歩き始めた私のそばを、風車を嬉しそうに右手に持つ子どもが意気揚々と走り抜けていった。
次の瞬間に、人と人とがぶつかり合う鈍い嫌な音が子どもの走って行った方角からした。
その方角へ顔を向けると、1人の男が子供に凄んでいた。
「おい、そこのガキ!あぶねぇーじゃねぇか!」
男とぶつかった子どもは怒号にも近い声を荒げながら絡んでくる酔っ払いを見上げ、今にも泣き出しそうな表情をしている。
男の子は角を通りの十字路の角を曲がった所で酔っ払いにぶつかってしまったらしい。
「ご、ごめんなさい……」
怯えながら後ずさる子どもに向かい、その酔っ払い男は手を振り上げた。
このまま突っ立って見ていれば男の子が殴られてしまう。
男の子のいるところまで駆け寄り庇おうとした瞬間に、後方からよく通る低い声が響いてきた。
「待て」
低い声の持ち主が誰なのか確認しようと声のした方へ振り返ってみると、酔っ払いを馬の上から見下ろし睨み付ける、有無を言わせぬ威圧感を全身から放出している男の姿があった。
「お、おい、あの旗はもしや尾張の信長じゃあねぇか…」
馬に乗っている男を見遣りながら野次馬の町民が小声で呟く。
「男が女子供に向かって手をあげるとは。とんだ恥晒しめが」
そう言い放った馬上の男の威圧感は相当で、こちらまでも雰囲気に圧倒されて体が硬直してしまうほどだった。
男の威圧感に恐れをなした酔っ払いは、平伏すように土下座をし、地面に額を擦り付けた。
「も、申し訳ありません。金輪際このようなことは致しませんので、どうか…どうか命だけは…」
酔っ払いが土下座をしたままの格好で懇願すると、信長と思わしきその人物は
「秀吉、その男を始末しておけ」
と短く指図すると、何事も無かったかのように涼しい顔で手綱を捌き、馬を歩かせた。
始末をしておけと指示された付き人は、情けなく小刻みに震える酔っ払いへゆっくりと近づいていく。
その場から動けずに成り行きを見ていると、秀吉と思われる付き人は意外にも穏やかな声を発した。
「顔を上げてください」
「えっ??」
予想されたものとは違う付き人のセリフに、酔っ払は間の抜けた反応をした。
「明日までこの町には近づかないことです」
「は、はいっ!…承知致しました」
「2度目はありませんよ、いいですね」
付き人がそう言うと、酔っ払いは何度も頷きながら一目散にその場から逃げて行った。
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