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料亭の手伝いを終えて店への帰路を急いでいると、店前に立ちつくす奉行の姿が見えた。
この奉行に執拗に付き纏われ結婚をせがまれており、ほとほと困っていたのだ。
内心で鬱陶しく感じて通り過ぎようとすると、奉行が顔をぐっと近けながら尋ねてくる。
「いつになったら拙者と夫婦になると決めるのだ?女中付きの生活だ、苦労はさせないぞ」
「私は今の生活が幸せなんです。それに、結婚は好きな方としたいんです」
付きまとってくる奉行に向かいそう言い切りキッパリと断ったつもりでいたが、奉行は一向に怯む気配がない。
「拙者と結婚をすれば、このしがない小料理屋を大きくしてやれるぞ」
かつて幕府の料理人を務め上げた父が築き上げた小料理屋が侮辱され、私の胸にはふつふつと怒りが湧いた。
「うちは確かに小さい店ですが、父が考案した店の看板料理の必勝飯は、武将がお忍びで訪れるという噂もあるほど評判なんです!しがないなんて言われる覚えはありません!!」
近くにいた町人たちが注目するほどの大きな声で反論すると、奉行が目を見開いた。
今度こそ追い払えたと一安心したが、
「ムキになった顔もかわいいでござる」
どうやら抵抗は逆効果のようだった。
奉行はにやにやと嫌な笑みを浮かべると馴れ馴れしくも腕を掴んでくる。
振り払おうした瞬間、奉行が何者かに蹴飛ばされドスンと鈍い音が響いた。
「えっ!?」
蹴飛ばしたのが誰だのか見てみると、そこに立っていたのは弟の弥彦だった。
「このムッツリエロスケベ奉行め!こんなことしてる暇あるなら仕事の一つでもしろ!俺がいるうちは姉ちゃんには絶対に近付かせねぇーからな!」
啖呵を切る勇気ある少年に拍手とヤジが飛ばされた。
「勇ましい少年だ!」
「よくやった!」
「奉行も面目ねぇーな」
笑い者になってしまった奉行は、怒りを顔に滲ませた。
「このクソガキ…」
奉行は弥彦に殴りかかろうと拳を振り上げたがその腕はすぐに後ろから捕まれた。
「犬千代!」
犬千代は掴んだ腕を捻り奉行を見下ろす。
自分よりも幾分も大柄で強面の犬千代に腕を捕らえられた奉行は震え出した。
犬千代が腕をさっと離し解放すると、奉行はその場を去っていく。
「犬千代、いつもありがとう」
「いい加減に守ってくれる旦那でも見つけろよ」
「そうだけど、弟が店を回せるようになるまでは結婚しないって決めてるの」
「はいはい」
「もう、適当な返事して。どうせ言い訳とでも思っているのでしょう?私、ほんとに…」
続きを言いかけた途中で犬千代の荷物がいつもより多いことに気が付いた。
「また戦へいくの?」
戦となれば、身分関係無しに領民の男子は武士として戦地に出向しなければいけないのが時代の定めだ。
頭では分かっているものの毎度不安が胸の中をよぎった。
「今度はどれくらいで京に戻ってこられるの?」
「お前さんは自分の心配だけしてな。なに、俺を誰だと思ってるんだ。そう易々とやられねぇさ。俺の心配はいらねぇ。任務が済んだらすぐに京に戻ってくるよ」
犬千代は弥彦の頭をクシャっと撫でると、颯爽と去って行った。
遠ざかり小さくなってゆく犬千代の背中を見送っていると弥彦が拳を握りしめながら呟いた。
「俺も、犬千代の兄ちゃんみたいに強くなりたい。姉ちゃんのこと守ってやれる男になりてぇ」
「そういえば、まだ弥彦にお礼を言ってなかったね。さっきはかっこいい蹴りで助けてくれてありがとう」
「別に…たいしたことはしてないよ」
弥彦が恥ずかしそうに目を伏せたときに町人の物騒な話し声が耳に飛び込んできた。
「今度の戦はかなり荒れるそうだぞ」
犬千代の去っていた方向へ目向けたが、すでに彼の姿は人の往来に見えなくなっていた。
その様子を見た弥彦がいたずらに笑いながら私を茶化した。
「ねぇちゃん、さては寂しいんだろ」
「そ、そんなことないよ。さ、早く店に戻ろうね」
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