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「お父さん…」
壊れてしまったかんざしを握りしめて肩を震わせながら両目に涙を溜める。
水滴は止まることを知らずに次から次へと頬をつたい顎の先まで流れてきた。
堪えていた感情がダムが決壊したかのように溢れ、それはいつしか口から漏れ出す嗚咽となってくる。
「うるさいぞ」
河原の草むらの陰から、どこかで聞き覚えのある低い声が唐突に聞こえてきた。
「昼寝もできないではないか」
草むらから着物を着崩した男がむくりと起き上がる。
「なんだ、それが壊れて泣いているのか。情けない奴だ」
男はまだ言い足りないのか更にその口を動かす。
「泣く体力があるなら、自分の力でどうにかしろ」
容赦なく責め立てる言葉に涙腺から頬を伝っていた涙がいつの間にか引っ込んでいた。
男が言い終えると、遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
「おーい!」
声のした方をみると、河原へ降りる石段の辺りで、切羽詰まった様子で手招きをする母の姿があった。
「あの、もしかして信長様なのですか?」
信長に似た男はさも面倒だといった表情で眉をしかめ、そっぽを向いた。
「お前の勘違いだろう。ほら、さっさと行け」
信長に非常によく似ているのにも関わらず、「勘違いだ」と否定されたことに疑念を抱きつつ石段を駆け上ると母は走ってきたのか息を切らしており、なにやら焦っている様子だ。
「大変なことになってるんだよ!奉行がさっき騒いでいたチンピラたちを連れて店にやってきたんだ」
「えっ!?わかったすぐに行く」
慌てて店へと駆けつけてみると、母の言う通り奉行が店にやってきていた。予想はしていたが、その奉行はしつこく結婚を迫ってきていたあの奉行だ。
「料理に虫が入っていると忠告しただけでこのような仕打ちを受けるとは…この店はどれだけ横暴なのだ?」
奉行はこれでもかというように大袈裟に包帯の巻かれたチンピラを見せつけるようにして前に突き出してくる。
どうやら、ついさっき店で暴れたチンピラたちは奉行の手下だったらしい。
「違います!それは…」
「私は領主からこの地を守れと仰つかっているんだ!奉行という責務をなんとしても全うせなならん!」
奉行は続けた。
「店に乱暴をするようなこんな店は…今後一切、商いを停止するのが妥当な処分だろう」
「そんなっ…!」
それはいくらなんでもやりすきだと言い返そうとしたが、奉行はまだ口を止める気配がない。
「だが、今回は特別に、私の部下の仕事をこのクソガキが…」
そこで奉行は一旦口の動きを止めたが、すぐさまに続きを話し始める。
「坊主が肩代わりするのならば、この件は特別に不問にしてやる」
「弥彦に何をさせるおつもりで?」
この奉行は信用ならない。私が厳しい剣幕で尋ねると、
「なぁに、ある武将のそばで、美味しいものをただ食べるだけの簡単な仕事だ」
と厳しい顔をする私をニヤニヤと嫌な表情で見ながら奉行は答えた。
武将の側で食事をするなどという仕事なんていうものは毒味役に違いない
「そのような危険な仕事、弟にさせられるわけがありません!」
我慢の限界だった私はとうとう堪忍袋の尾を切らせて怒鳴り声にも近い声色で言った。
「ならこの店の商いを停止するまでだな」
「あなたっ…」
遮るように弥彦が口を開く。
「ねぇちゃん!俺、その仕事やるよ。そうすれば商いを続けられるんだろ?」
「弥彦…」
「犬千代の兄ちゃんがいない今、母ちゃんと姉ちゃん、それにこの店を守れるのは俺しかいないからな」
弥彦はそう言うと、奉行の持ってきた契り書に抵抗なしに血判を押してしまった。
「あぁ…弥彦…」
「母さん、大袈裟だよ。しばらく離れるだけさ。大したことではないよ」
そう格好つけて言う弟の足が微かに震えてるのが分かる。
奉行たちは契り書を満足げに受け取ると、店を出て行った。
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