ゴーストとティータイム

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「離せと言っているだろう!?」  狭いシャワールームに響く大声は、もちろんハーヴィーのものだった。  膝の上に乗ったハーヴィーが振り回す手を、ロイクがあっさりとキャッチする。 「駄目だよ。ひとりで立ってもいられないくせに、本当に君は強情なんだから…」 「だからといって指を挿れようとするなッ!」 「暴れたら危ないだろう…?」 「貴様が諦めれば暴れないと私は言っているんだ!」  憎々しげに吐き出してみても、ハーヴィーの力ではロイクの手を振り解けるはずもない。  ――だからといって大人しくなどしていられるか! か、掻き出すなど…っ。  心の内で悲鳴を上げるハーヴィーなどなんのその。易々と動きを封じたロイクの指が、ハーヴィーの下肢へと向かう。 「待っ、自分で出来る…! 頼むから私をこれ以上辱めないでくれ…」  抵抗を諦めてハーヴィーが懇願すれば、小さな溜息がロイクの口から零れ落ちた。 「はぁ…、仕方がないなぁ。なら、片腕だけ離してあげるよ」 「っ!?」 「ちゃんと見ていてあげるから残さずに掻き出すんだよ?」  まるで我儘な子供を憂いているかのようなロイクの態度に、開いた口がふさがらなくなる。否、ハーヴィーの唇はふるふると戦慄いた。…怒りによって。 「いったい誰のせいでこんな事をしなければならないと思っている!? 貴様は出て行けっ!」 「嫌だ」  短く即答するロイクの態度に絶望を覚える。それどころかロイクは、脅し文句を吐いてみせた。 「そんなにやる気がないのなら、やっぱり僕が君の中に残った精液を掻き出してあげる」 「待て!」  双丘の奥へと伸ばされる腕をハーヴィーは掴んだ。が、もちろん止められるはずもない。  昨晩、嫌というほど曝け出した痴態がハーヴィーの脳裏を過る。 『もっ…とぉ…、も、焦らさな…で』 『ゃぁ、ァッ、抜かな…っでぇ』 『……ロイの…あついの、欲し…』  無駄に良い記憶力のせいで、自らが宣った戯言(たわごと)の数々をハーヴィーはしっかりと覚えていた。  ――っ、思い…出すな…。  今すぐにでもロイクを殴り飛ばして逃げたい気分だが、片手でロイクを止めるのに必死なハーヴィーはそれどころではなかった。 「やめろと…言ってるだろうっ」 「遠慮は要らないよ。君の言う通り、君をこんな目に遭わせているのは僕だからね。責任は取るつもりだから安心して?」 「それが要らぬ世話だと言っているのが分からないのか貴様は!」  ハーヴィーが怒鳴ったところで、ロイクの眉が僅かにあがった。 「ところでハーヴィー、君は今朝からずっと口調が荒いね」 「は? 何を今さら…」  起き抜けからこれまで、ロイクを何度罵ったか知れない。それなのに何故今になって? と、不思議に思っていればロイクの顔がぐいと近づいた。その顔が、どこか嬉しそうだった。 「少しは僕との距離を近くに感じてくれたって事なのかな?」 「はぁ?」  今度こそ意味が分からないと、ハーヴィーは眉根を寄せた。ついでに、近すぎるロイクとの距離を顔を背けて躱す。  ――この男は何を言っているんだ?  声を荒げられて喜ぶ男がどこの世界に居るというのか。 「普段の君は、絶対に他人をそんな強い口調で呼ばないだろう?」 「当たり前だ」 「ということはつまり、僕は特別という事だよね?」  うきうきと声さえも弾ませるロイクが理解できない。 「あなたの言っている意味が分からない」 「あぁ、駄目だよハーヴィー…それじゃあ前と変わらないじゃないか」  残念がるロイクを呆れたように見つめていれば、ロイクはさらに言い募る。 「僕は君と知り合ってまだ間もないけれど、僕の知る限り君が気兼ねなく話しかける相手はフレッドしかいない。つまり君は、ようやく僕をフレッドと同程度の相手として接してくれるようになったという事だろう?」  どういう思考回路をしていればそんな話になるのか知らないが、勝手にしろとそう思う。だが、ハーヴィーは続くロイクの言葉を聞いて表情を消した。 「もう少し君を手懐けるには時間が掛かると思っていたけれど、これは嬉しい誤算だね。僕の作戦は、成功という訳だ」  ――手懐ける…? 作戦?  ズキリと、心が痛む。聞きたくなかったという思いと、やはりそうかという相反する思いが交錯する。  ――馬鹿馬鹿しい。最初からこの男は信じなくていいと言っていたじゃないか。  なのに信じかけていた自分が馬鹿なのだと、ハーヴィーは自嘲を漏らす以外になかった。  黙り込んでしまったハーヴィーを、ロイクが覗き込む。 「ハーヴィー…? どうしたんだい?」  気分でも悪いのかと、さも心配そうに問いかけるロイクの顔をハーヴィーは押し退けた。 「ちょっと、ハーヴィー?」 「……出て行け…」 「え?」 「私を置いて出て行けと言ったんだ! 今はあなたの顔もみたくない!」  たいして力も入らない躰で身じろぎすれば、頤へと掛けられた手に無理矢理ロイクの方へと顔を向けさせられる。 「この顔が見たくない?」  また力尽くで強引に組み敷かれるかもしれない恐怖がない訳ではなかった。それでも、”騙された”と思いながらロイクの近くにいるのは辛かった。  恐れている事を悟られたくなくて、震えそうな声を必死に抑え込む。 「……そう言ったはずだ」  何をされるかと身構えているハーヴィーを、だがロイクはあっさりと手を放した。 「そっか…。わかったよ」  ゆっくりと、膝の上から降ろされる。立ち上がったロイクの陰で床を見つめていれば、静かな声が耳に流れ込んだ。 「君は嫌かもしれないけれど、ちゃんと後処理はするんだよ? お腹を下してしまうといけないから、ね?」 「…っ」  くしゃりと大きな手で一度だけ髪を撫でて、ロイクはシャワールームを出ていった。  ――ほんの一瞬でも、信じそうになった私が馬鹿だった…。  これみよがしに優しい言葉を残していくロイクが憎らしかった。それに、期待しそうになる自分自身も。  ――くそ…っ。  苛立ちに任せて自らの後孔へと手を伸ばす。ほんの僅か腰を浮かせようとしただけでも響く鈍痛にハーヴィーは顔を顰めた。  ――どうして私がこんな目に遭わなければならないんだ…!  シャワールームの床に座り込み、自らの指で男の体液を掻き出すなど無様で仕方がない。そう思っている筈なのに、中で指を動かすにつれ頭を擡げ始める下芯が恨めしい。 「っ…ふ、……くっ」  零れ落ちそうになる声を歯を食いしばって堪える。体勢を変えることもままならず、上手く掻き出せないもどかしさに虚しさばかりが募っていった。  ――馬鹿だな…私は…。  あんな男に絆されなければ、こんなに無様な姿を晒さずに済んだだろう。もはや考えたくもなくて、ハーヴィーは無心で指を動かした。早く掻き出してしまいたい気持ちが逸り、手つきがおざなりになっていく。些か荒くなりすぎた爪さきが、柔らかな媚肉を引っ掻いた。 「痛…っ」  思わず小さく呟いたハーヴィーの耳に、控えめなノックの音が届く。次いで心配そうなロイクの声がドア越しに聞こえた。 「……大丈夫かい?」 「…っ」  なんと答えていいものかもわからずにハーヴィーが黙り込んでいれば、気遣わし気な声とともにシャワールームのドアが開いた。大きな躰が、傍らにしゃがみ込んだ。 「ごめんね、ハーヴィー…。君の事を僕は何も考えていなかったみたいだ」  大きな手が濡れた髪を優しく撫でる。 「君の態度がどうして急に変わってしまったのか、僕なりに考えてみたんだけれど…。聞いてくれる?」  ロイクの言葉を聞きたい気持ちはあった。けれども今は、どんな言葉も素直に聞き入れられる自信がない。  ハーヴィーは、頑なに首を横に振っていた。    ◇   ◆   ◇  二週間後。あれからハーヴィーは一度もロイクと顔を合わせていなかった。用事で出てくるとそう言って部屋を出ていったきり、ロイクが部屋に帰ってこなくなったのだ。  シャワールームで聞きそびれたロイクの言葉をきちんと聞きたい。時間が経って落ち着いた今なら、冷静に話ができる気がしていた。それなのに、当の本人が帰ってこないのだからどうしようもないのだが。  フレデリックはロイクの行き先を知っていそうな気もするが、仕事だと言われるのがオチだろう。  ――この部屋にいれば、あの男は帰って来るはずだ…。  自室に戻ろうという気には、不思議とならなかった。ロイクのプライベートナンバーは私用の携帯に登録してあるが、繋がったところで何をどう切り出せばいいのか分からず連絡すらできずにいる。  正直なところ、二週間前のあの日の晩に、ロイクが帰ってきたらどんな顔をすればいいのかと悩みに悩んだハーヴィーである。だがしかし、そんな苦労も知らずにロイクは帰ってこなかった。  ほっと安心したのは、初日だけだった。  明日には、船は再びサウサンプトンの港に帰港する。ロイクが居ない今、イギリスでの短い休暇をどう過ごすべきかを考えねばならない。  ロイクが居ないのだから安全ではないのかと、そう言ったハーヴィーに、呆れたような顔をしたのはもちろんフレデリックである。そのフレデリックから、教会の周辺に部下の手配が完了したという連絡があったのは三日前だ。  ハーヴィーは執務机の上から携帯を取りあげた。 『やあハーヴィー』  数回の呼び出し音の(のち)、聞き慣れた穏やかな声が端末から流れ出る。 『ちょうどよかった。そろそろ、僕もキミに連絡しようと思っていたところだよ』 「…教会の様子はどうだ」  低い声でハーヴィーが確認すれば、回線の向こうから可笑しそうな笑い声が聞こえてきた。 『キミもなかなか意地っ張りだねぇ』 「いいから質問に答えろフレッド」 『もちろんそちらは心配要らないよ。それよりも、キミには僕に聞きたい事があるんじゃないのかい?』  フレデリックの賢しげな態度がロイクと重なって、ハーヴィーは携帯電話を強く握り締めた。 「私はロイクが居なくても様子を見に行くつもりだ」 『まあ、キミならそう言うと思ってたけどね』 「どうせお前は反対すると思っていた」  フレデリックが止めることはわかっている。言われる前に言ってやれば、今度こそ大きな笑い声が響いた。 『あっはは、キミのそういうところが僕は大好きだよ』 「私はお前のそういうところが好きじゃない」 『ふふっ。まぁ冗談はさて置き、だね。今のところ教会にファミリーの人間が接触したという情報は入ってない。けど、キミが足を運ぶことで教会とキミとの繋がりを知られるとしたら?』  尾行がつくことは避けられないという話は、以前にもフレデリックに聞かされている。まして船が帰港する港は決まっているのだから、相手にとってこれ以上に有利な条件はないということも。  黙り込んでしまったハーヴィーが口を開くのを、フレデリックは何も言わずに待っていた。
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