ゴーストとティータイム

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   ◇   ◆   ◇  結局、ハーヴィーはフレデリックの忠告が気になりながらも好奇心に負けて教会へと向かっていた。  港から教会のある地区までは田舎道で、尾行されていれば必ず気が付く。そんな自信がハーヴィーにはあった。時折りバックミラーに視線を向けても、尾行どころか車の影さえも映りはしない。  ――大袈裟に脅かせたかっただけだろう…。  車中でひとり小さく息を吐いてハンドルを握り締める。山沿いの道を抜ければ、教会のある街まではあと少しだ。  緩い右カーブを抜けた時、それは起こった。鋭い破裂音が聞こえたかと思えば、急激にハンドルを左に取られる。 「ッ!!」  ガードレールも何もない田舎の峠道。そのまま車体を左に持っていかれれば、すぐさま車は転落する。ハーヴィーは、ブレーキペダルを渾身の力で踏みしめながら右へとハンドルをめいっぱい切った。甲高いスキール音と、ゴムの焼けた匂いが鼻につく。 「くそ…!」  どうにか転落は免れたものの、今度は目の前に山肌が迫っていた。救いといえば、そこが切り立った岩山でないという事くらいだ。  耳障りな鈍い音を響かせて車体がぐらりと揺れる。スピードを出していれば横転していただろうが、ブレーキを踏んでいたおかげで車体は斜めの状態で停止した。  重力に負けて傾ぐ躰をどうにか立て直し、助手席側のドアから車外へと出た途端、ハーヴィーは自らの甘さを呪う羽目になった。  いつの間にか、車を挟み込むようにして二台のバンが停車している。中から降り立ったスーツ姿の男たちの手には銃器が握られていた。  ――冗談だろう…?  あまりにも、現実とは思えない光景に息を呑む。まるで映画のワンシーンに飛び込んでしまったような、そんな非現実的な気分になる。だがしかし、そんなハーヴィーの悠長な思いはすぐさま現実へと引き摺り戻された。  ハーヴィーを取り囲むように並んだ男たちの後ろから、明らかに纏う雰囲気の違う初老の男が歩み出た。グレーの髪にどこか爬虫類を思わせる無感情な瞳が印象的な男が、薄い唇を開く。 「ハーヴィー・エドワーズ、一緒に来てもらおう」 「あなたは?」 「私の名に意味はない。何者かを知りたいと言うのなら、それこそ身に覚えがあると思うが?」  嘲笑を湛えた男の唇を見つめ、ハーヴィーはそれから視線を逸らせた。その耳に、落ち着いた、けれども有無を言わせぬ威圧を纏った声が届く。 「気短な部下たちがしびれを切らす前に、返事をして欲しいところだが」 「わかりました。その代わり、ロイクに会わせて頂けませんか」 「君は、条件を提示できる立場だとでも思っているのか?」  僅かに細められる男の目を見返して、ハーヴィーは軽く肩をくすめてみせる。 「いいえ。私はただ要望をお伝えしたまでですよ」 「なるほど。検討しよう」  検討するというからには、やはりロイクもまた、組織の人間の手の内にあるという事だろうか。男の言葉に、自分たちは思ったよりも深刻な事態に陥っているのかもしれないと、そう思った。  ハーヴィーは、バンの後ろに止められていた乗用車の後部座席へと乗せられた。すぐ隣に初老の男が座る。ゆったりとした姿勢で寛ぐ男に暴力的な気配は感じられなかったが、纏う雰囲気がどこか冷たく感じられた。  音もなく滑り出した車の中で、ハーヴィーは車窓へと目を遣った。もと来た道を引き返すようで安心する。 「安心したかね?」  唐突に聞こえてきた静かな声に、ハーヴィーが全身を強張らせたことは言うまでもない。  知っているのだ。教会のことを。  苦い思いが胸を過る。反面、自らのせいで知られた訳ではないという安堵の念も、あるにはあった。 「何もかも、調べ上げているという事ですか」 「それが私たちの仕事だ」 「噂に聞いているより穏やかで安心しました」  相変わらず窓の外を眺めながら言えば、男が微かに笑う気配が伝わってくる。 「君は噂とは違うようだ」 「どうでしょうか。私はただの客室係ですよ。今だって、怖くてすぐにでも逃げだしたいくらいだ」  今度こそ男ははっきりと、笑った。ただし、冷笑ではあったが。 「食えない男は嫌いではない。だが、愚か者は好むところではないな」 「それは失礼致しました。以後、気をつけましょう」  それっきり、ハーヴィーは口を閉ざした。初老の男もあまり口数が多いタイプではないのか、静かに過ぎていく時間の中で流れる景色を見つめる。  車はどうやらサウサンプトンへと戻っているらしかった。  港を見下ろせる小高い丘の中腹にある山荘へと乗り入れた車は、静かに停止した。鬱蒼と茂った森が、日中だというのに日を陰らせていて寂寥感を漂わせている。山道に入ってからの距離を考えれば、周囲に民家や何かの施設がない事は明らかだった。  後ろについてきていたバンから降りた男が後部座席のドアを開ける。 「降りろ」  短い指示に、ハーヴィーは黙って従った。反対側から初老の男が降り立つ。  初老の男に続いて山荘へと入ったハーヴィーの背後で静かに扉が閉まる。どうやら、他の男たちは外で待機しているようだ。  比較的大きな山荘の中はガランとしていて、薪の灯っている暖炉のそばにソファが二つ置かれているだけだった。窓からは陰った日差しが部屋に射しこんでいる。 「掛けたまえ、ハーヴィー・エドワーズ」 「ありがとうございます。ハーヴィーで結構ですよ、ミスター・ノーネーム」  いったいどんな話になるのか見当もつかない。が、ハーヴィーはふと思った疑問を口にした。 「そういえば、いつ私の車に細工を?」  ハーヴィーが乗っていたのはレンタカーで、船を降りてから借りたものだ。事前に予約をしていた訳でもない。それなのに、どうしてタイヤをパンクさせる事が出来たのか。素朴な疑問だった。 「細工などしていない」 「偶然だとでも?」 「狙撃はしたがな」  狙撃。男の言葉に、背筋を冷たい何かが撫でていった。  もし相手がその気であれば、あの瞬間にハーヴィーを殺す事も可能だったと、そう言っている。 「ありがとうと言うべきか…悩みますね」 「不要だ。状況は何も変わってはいない」 「……肝に銘じておきましょう」  引きつりそうになる口角を隠し、ハーヴィーはゆらゆらと揺れる暖炉の炎を見つめた。自分の命を狙っているかもしれない連中がいる方を見る気にはなれない。  時折パチパチと爆ぜる炎を見つめ、男の言葉を待つ。こんな人里離れた場所にわざわざ連れ込んだという事は、あまり良い話ではないだろうが。  薪の燃える音だけが部屋に響く。一際大きな音を響かせて薪が爆ぜるのを合図にしたかのように、男は口を開いた。 「ロイク・ヴァシュレが何者であるかは、もちろん知っているのだろうな」  ハーヴィーの視線が僅かに上がり、男を捉える。いよいよ本題に入るのかと思えば、思考がすっと冷える気がした。 「はい。マフィアだと聞きました」  はっきりと告げてみても、男の表情に変化はなかった。 「私たちにはルールがあるという事は?」 「もちろん聞きました。だから私はここに連れて来られたのでしょう?」 「その通りだ。つまり君は、あれのために制裁を受ける覚悟があるという事になるが」  ハーヴィーは僅かに視線を落として言葉を選んだ。 「私が制裁を受けたとして、ロイクが無事でいられる保証があるのなら覚悟もしましょう。ですが、あなた方はそうではない」  顔を上げて告げたその時、にわかに外が騒がしくなる。何事かと窓の方を見た刹那、ハーヴィーは男に腕を掴まれていた。力強い指先が皮膚に食い込む。  外の様子を窺うことは、許されなかった。 「…っ」 「抵抗はしない方が賢明だ」  わざとらしく言われずとも男の腕力は強く、ハーヴィーに逃げ出す隙はなさそうだった。  腕を引かれるまま、建物の奥へ奥へと連れていかれる。外観からは想像できなかったが、どうやら想像以上の奥行きがあるように感じられた。  男は何度か曲がった廊下の突き当りにある部屋のドアを開けた。低い音が響き、扉を見れば相当な厚さに驚かされる。 「ここで待っていてもらおう」 「私だけですか?」 「そうだ」  扉の向こうは暗く、ハーヴィーの場所からでは中の様子は見えない。が、扉の厚さといい地下でもないのに窓のない造りといい、印象は最悪だった。  ふと、一生閉じ込められるのではないかという不安が胸の内を過る。  ――守ると…そう言ったくせに…。  不意に、優し気なロイクの眼差しを思い浮かべてハーヴィーは唇を噛み締めた。  信じないと決めていた。けれど、心のどこかでは信じたいとも思っていた。なのに――…。  ――どうでもいい。家族たちさえ無事ならば…それで…。  古ぼけてはいてもどこか厳粛さを漂わせる建物。裕福ではなくとも明るい兄弟やシスターたちの姿が脳裏に浮かぶ。  男に背中を軽く押され、ハーヴィーは暗い部屋の中へと足を踏み入れた。ほんの微かに、埃の匂いが鼻につく。無言で締まる扉を振り返り、辛うじて室内を照らしていた光が徐々に細くなっていく様をハーヴィーは黙って見つめていた。  完全に闇に閉ざされた部屋の中に、錠をおろす音がくぐもって聞こえてくる。 「…っ」  反射的に叫びたくなる気持ちを、歯を食いしばって圧し込める。  ――弱みなど…誰が見せてやるものか。  扉が閉まる直前、僅かに見えた壁の凹凸を手探りで探す。指先に触れた小さな硬い突起を軽く上下に動かせば、それは難なく上に動いた。パチンと、小さな音が反響して部屋を照らし出す。  六畳ほどの四角い部屋には、中央に椅子が一脚置かれているだけで他には何もない。  ――まるで拷問部屋だな。  こんなところに長時間閉じ込められると思うだけで、気分が滅入りそうだった。  部屋の真ん中に置かれていた椅子へと歩み寄れば、これといって固定されている訳でないことはすぐに分かった。椅子を壁際に寄せて腰を下ろす。  鉄製の厚い扉を横目で見遣り、ハーヴィーは溜息を漏らした。あれほど騒がしかった音も、この部屋には何も聞こえては来ない。  ――ロイクだろうか…。  突如として小屋の周囲が騒がしくなった原因を考えて、けれどもハーヴィーは打ち消すように首を振った。けれど…。 『僕は、君を傷付ける相手を誰一人として許さない』  頭に浮かんでくるのは自分にとって都合の良いロイクの台詞ばかりで苦笑が漏れる。  力のない笑い声は、何もない部屋にやけに大きく響いた。
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