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音もなく視界が闇に閉ざされる。それは、突然の出来事だった。
反射的に立ち上がったハーヴィーはだが、平衡感覚を失って僅かによろめいた。
「っ…」
咄嗟に壁の方向へと手を伸ばしてどうにか転倒は免れたものの、掴めなかった距離感に予想以上の衝撃が手首に走る。
「ッ、痛ぅ…」
ほんの小さな呻きさえもが、何もない部屋には大きく響いた。外の様子を窺おうと壁沿いに扉を目指す。その時だった。
バンッと、すぐ目の前で光が弾ける。ハーヴィーは咄嗟に右手を目の前に翳した。
「ッ!?」
何が起きたのか、一瞬わからなかった。けれど、翳した腕の向こうから耳に流れ込む喧噪に、扉が開かれたのだとすぐさま理解する。
ゆっくりと下ろした腕の先に、思いがけない人物を認めてハーヴィーは困惑した。
緩くウエーブを描いた赤い髪。女性と見紛うばかりの美貌に飄々とした笑みを浮かべる人物は、『Queen of the Seas』のカジノディーラーだ。
「きみは……、何故ここに?」
「さすが我が家イチの記憶力の持ち主だな。だが、残念ながら今は説明してる時間がない。行くぞ」
口笛とともにどこか歌うようにも聞こえる声音で告げるクリストファーが腕を掴む。そのまま有無を言わさず引っ張られて、ハーヴィーはもつれそうになる足を慌てて動かした。
「行くっていったいどこへ…!」
「我儘で傲慢な王子様のところに、さ」
心底楽しそうな口振りで告げられて、ハーヴィーは僅かに顔が熱くなるのを感じた。だがその時、廊下の角から数人の男たちが躍り出るように姿を現して一気に青ざめる。
「ッ…」
「怯える必要はない。そのまま真っ直ぐ走れ」
クリストファーの背中が目を疑うような速さで加速する。それこそ一瞬にして男たちの目の前に到達した刹那、クリストファーの姿が消えた。否、消えたように見えた。常人ではありえないような動きに目を瞠る。
沈み込んだクリストファーの躰がばねの様に跳ね上がり、男の躰が宙に舞う。虚を突かれた隙に、二人、三人と、あっという間に倒れ込んだ男たちの横を走り抜ける。
海上にいる時間が長いという事で、船ではセキュリティー面を考えて護身術や武術のトレーニングが義務づけられているが、クリストファーの動きは明らかにそれとは違っていた。
「クリス…まさかきみも…?」
「まったく、うちの兄貴たちは人使いが荒くて困る」
そのうえ容赦がないと、そう言って笑いながらクリストファーは片目を瞑ってみせた。
玄関を抜け、外へと出たところでハーヴィーはその光景に息を呑んだ。派手…と、そう表していいのかは分からないが、山荘の目の前の空き地はまるでアクション映画で主人公が暴れた後のような様相を呈している。
そんな中、悠々と並んでいる二つの金色の頭にハーヴィーは唖然とした。
「ロイク…。それにフレッドも…」
「やあハーヴィー、どうやら無事だったようだね」
ハーヴィーの声にすぐさま振り返ったのは、フレデリックだった。ロイクは背を向けたまま佇んでいるだけで、動く気配もない。
「その…彼らは、生きているんだろうな…?」
辺りを見回せばそこかしこにスーツ姿の男たちが転がっていて、不安を掻き立てられる。車を襲撃された時の比ではないその数に、些か肝を冷やす思いではあったが。
「もちろん。気を失っているだけだよ」
「そうか…ならいいんだが…」
ロイクとフレデリック、そしてクリストファーの他に動いている人影はなかった。
――まさかたった三人でこれだけの人数を…?
怪我を負った様子もない三人を見遣れば、怖ろしささえ感じてしまう。
ハーヴィーは辺りを見回した。倒れているのはみな若者ばかりで、あの初老の男の姿がない。
「どうしたんだい?」
「私をここに連れてきた初老の男性が居たはずだが…」
「ああ、それなら車で待機してもらっているよ」
いつの間にかクリストファーが横に立つ黒いワゴンの中に、初老の男の姿はあった。後部座席のドアは開け放たれていて、何事かを話しているようだが声は聞こえてこない。
「彼はいったい何者なんだ…?」
「我らがアンダーボスさ」
フレデリックが答えるのと同時に、鋭い舌打ちの音が響いた。次いで、ロイクがフレデリックの胸倉を掴みあげる。
「ロイッ!」
慌てるハーヴィーの耳に、低い威圧を纏ったロイクの声が流れ込んだ。
「フレッド、それ以上余計な情報を口にするな」
「どうせ知れる事だよ。それに、あなたばかりが情報を持っているのはフェアじゃない」
胸倉を掴まれてもなお、穏やかな口調を崩さないフレデリックにロイクは再び舌打ちを響かせて手を放した。撚れた胸元を直しながら、フレデリックが困ったようにハーヴィーを見る。
「さあ、後始末は部下たちに任せるとして、先ずはここを離れようか」
「あ、ああ…」
クリストファーが運転席に乗り込んだワゴンへと、ハーヴィーはフレデリックとともに乗り込んだ。もちろん、ロイクも。
ハーヴィーは、フレデリックの指示で最後部に座らされた。中央に初老の男とロイクが並ぶ。フレデリックは、助手席へと乗り込んだ。
だがしかし、車が動き出してもロイクに口を開く様子はなかった。ただじっと窓の方へ視線を遣って、流れる景色を見ているようだ。
重い沈黙が支配する車内で、口火を切ったのは意外にもクリストファーだった。
「さてフレッド、俺たちは無事アンダーボスを誘拐して来たわけだが、この後はどうするつもりだ?」
「もちろん決まってる。誘拐といえば相応の代償を要求する、とね」
内容は物騒な筈だが、クリストファーと、フレデリックの口調はまるでゲームの話でもしているかのようにしか聞こえなかった。そもそも、アンダーボスだという初老の男は、誘拐したといえども何の拘束もされずにただ静かに座っているだけだ。
だがしかし、二人の会話に呆れるよりも何よりも、ハーヴィーにとっての気がかりはロイクだった。
――どうして何も言ってくれないんだ…。
ただ一言でいい。「助けに来た」と、そう言って欲しかった。約束をしたからと、ロイクの口から聞きたかった。僅かに右に傾けられた金色の頭から、ハーヴィーは視線を逸らせた。
俯くハーヴィーの耳に、不意にロイクの声が流れ込む。
「抵抗はしない方が賢明だと、そうおっしゃったのはあなたですよ。レナルド」
まるでハーヴィーに言った言葉を聞いていたかのようなロイクの台詞に、レナルドと呼ばれた初老の男が低く笑った気がした。
「さすがだな。あれの子供らは、教育が行き届いている」
「失礼します」
いつの間に動いていたのか、ロイクの手がレナルドを押さえているようだった。もう片方の手がスーツをまさぐる。
ロイクの手がスーツから取りだしたのは、本当に実弾が撃てるのかというくらい小さなリボルバーだった。無造作に放り投げられたそれを、フレデリックが振り返りもせずにキャッチする。
小型のリボルバーから取り出した実弾を弄び、フレデリックは可笑しそうに笑いながら口を開いた。
「食えない男は嫌いではありませんが、愚か者は僕も好むところじゃない。立場上仕方がないとはいえ、あまり僕たちの手を焼かせないでいただきたい」
フレデリックのこのうえなく愉しそうな口調は、「あなたのしたことはすべて知っている」と、そう告げているようだった。
いったい何時からなのだろうか。ハーヴィー自身にも分からないけれど、ロイクもフレデリックも、入念な準備をしていたという事だけは確かだ。
「私をどこへ連れて行こうというのだ?」
感情のこもらないレナルドの問いかけに、リボルバーがクリストファーへと渡る。
「世界一豪華な我が家へご招待いたしますよ。客人に礼を欠く気は、俺たちにはないんでね」
言い終わると同時にクリストファーが無造作に後ろへと放り投げた小さな鉄の塊を、ロイクが宙で掴む。弾の抜かれたリボルバーは、無事持ち主のスーツへと戻された。
ハーヴィーは、目の前で繰り広げられる光景を唖然とした表情で見ている事しか出来ないでいた。
帰港中。クルーは休暇になるといっても、船の中が無人になる訳ではもちろんない。メンテナンスや清掃、リペアなど、専門のスタッフが大勢動き回る中を、ハーヴィーたち一行はにこやかに挨拶を交わしながら進んでいった。
レナルドのためにフレデリックが用意した部屋は右舷側のS区画。『Queen of the Seas』の中でも最も上質なクラスだ。当然、大の男が五人居ようとも狭さは感じない。
レナルドはメインルームのソファ。仕切りのないダイニングの大きな八人掛けのテーブルに、ハーヴィーとロイク、フレデリックが陣取る。クリストファーは、窓辺に寄り掛かった。
「さて、レナルド。ご自分の立場は既にご理解いただけていると思いますが、僕たちは正式な許可が欲しい。ボスに連絡していただけますか?」
フレデリックの言葉を促すように、窓辺から背を離したクリストファーが動く。まるでカードのようにテーブルの上を滑った携帯電話は、レナルドの目の前でピタリと止まった。
車中で聞いた話によれば、クリストファーもやはりマフィアの一員で、しかもロイクやフレデリックと同じ男を養父に持つのだという。つまりロイクとフレデリック、それにクリストファーの三人は、義理ではあるが兄弟という事になる。
だが、義理とはいえ兄弟だというのなら、何故ロイクとフレデリックはああもいがみ合うのかが理解できない。ハーヴィーとて血の繋がらない兄弟が大勢いる身ではあるが、可愛いと思いはすれど邪険に思ったことなどない。
――後継者争い…なのか?
ふとそんな事が脳裏を過って、だがすぐに否定する。だとすればクリストファーも同じ立場であって、ロイクとフレデリックだけがいがみ合っているというのはおかしな話だ。それに、フレデリックは自らを後継者だと言ったが、その時のロイクには何の興味もなさそうだった。
ハーヴィーが物思いに耽るように考え込んでいれば、静かな声が鼓膜を揺らす。
「私よりも、お前たちの誰かが連絡すれば済む話だろうに。あれも父親だ、子供らの我儘程度は聞いてくれるやもしれんぞ」
微かに響くレナルドの笑い声に危機感などは一切ない。むしろ自分の方が立場は上であると、そう言っているかのようですらあった。
事実、レナルドがアンダーボスだというなら、それも間違ってはいないだろう。いくらフレデリックが後継者だとはいえ、まだ組織の頂点に立っている訳ではないのだから。
「ロイクに限ってそれはない。あなたもご存知でしょう?」
「では、諦める事だな」
目の前で交わされる会話の内容を、上手くまとめることが出来ない。フレデリックとレナルドの間で交わされる言葉は断片的すぎて、組織の内情など一切知らないハーヴィーは事情を推測することしか出来なかった。
「だいたい、だからこそあなたが出向いてきたのでは?」
「あれは忙しい身だ」
それに…と、言葉を切ったレナルドの視線がロイクへと向けられる。
「私は本人の口から何も聞いてはいない。それこそ筋違いというものだ」
哀れみすら感じさせるような冷たい声音に、小さな息を吐いてロイクが立ち上がった。
「確かにあなたの言うことは間違っていない」
そう言って、レナルドの元へと近づきながらロイクが手にしたものに、ハーヴィーは息を呑んだ。
黒い、車の中で見たものとは比べ物にならないほど大ぶりのオートマチック。
「ロイッ!」
立ち上がろうとしたハーヴィーはだが、フレデリックに肩を押さえられた。
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