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静かな、ロイクの声がフレデリックの向こうから聞こえてくる。その声はどこかいつものロイクと違う気がした。
「レナルド。私は伴侶を得たい」
「銃口を向けて報告とは恐れ入るものだな」
「許されないのなら許されるまで、私はファミリーに牙を剥く覚悟がある。もちろん今この場で引鉄を引くのに躊躇はない」
ロイクの言葉に、ハーヴィーは唖然とした。次いで、顔が熱くなる。
聞き間違いではなかったかと、恐る恐る顔を上げればフレデリックが可笑しそうに笑っているから余計に恥ずかしい。
だがしかし、ロイクの口調はとても冗談を言っているようなそれではなかった。信じるとか信じないとか、そういう次元ではない。それが本音なのだと相手に伝えるだけの意志を持った、ハーヴィーが初めて耳にするロイクの声。トーンも何もかもが、フレデリックとは似ても似つかない。
「お前はそれでいい。だが、ハーヴィー・エドワーズはどうなのだ。お前のなにを知っている?」
「なにも。だが私たちはそれでいい。彼が知ろうというなら教えよう。知りたくないものを教える必要はない。私は私のやり方で彼を守ると決めた。誰にも邪魔はさせない」
見えなくともロイクの口元が笑みを象っているのが分かる。その目がどれほど穏やかな光を浮かべているのかも、ハーヴィーは知っている。
「おいで、ハーヴィー」
ゆっくりと振り返り、思った通りの顔でロイクが右手を差し出してくる。ちらりと見遣ったフレデリックの首が、行って来いとでも言うように僅かに揺らいだ。
一歩。また一歩と、足を踏み出すたびにロイクとの距離が縮まっていく。あとはもう、手を伸ばせば届く距離にまで近づいて、ハーヴィーは改めてロイクの差し出した手をじっと見つめた。
大きくて力強い手が、ぴくりとも動かずにハーヴィーを待っている。
――いいのか…。本当に…?
この手を取れば後戻りはできない。僅かに躊躇っていれば、柔らかなロイクの声が耳に流れ込んだ。
「この先ずっと、君を私の手で守らせて欲しい」
「……許されなくてもか?」
「許されなくても」
「また…私が攫われても…?」
「もちろん奪い返しに行くよ」
自信満々に応えるロイクに、ハーヴィーは思わず吹き出した。
「そこは攫わせないと言うところだ、馬鹿…」
「君は意地が悪いね。けど、私の目の届く場所に君が居てくれる限りはそうしよう」
出来ない約束はしないと、そう言って微笑むロイクの手をハーヴィーが掴んだ途端、強く引き寄せられる。
厚い胸板に激突して息を詰めたハーヴィーの耳元に、低く囁く声が流れ込んだ。
「愛してるよ、僕の可愛いハーヴィー」
「…っ!」
顔に熱が集中する。けれども、恥ずかしさはあっても怒りは湧いてこなかった。腰を抱いたままレナルドへと向き直るロイクの顔を、間近に見上げる。
レナルドを見つめるロイクの目は、凍てついてしまいそうなほど冷たい。けれども、ハーヴィーの腰に回された腕は優しいままだった。
「レナルド。あなたが認めてくれるのであれば、心はハーヴィーのものであっても私の忠誠は変わらない」
「君はそれでいいのかね? ハーヴィー・エドワーズ」
口を開くよりも先に、ハーヴィーの手はロイクの握るオートマチックへと添えられていた。
「あなたの言うような覚悟を決めるつもりはありません。でも私は後悔はしない。ロイクがここで引鉄を引くことになるとすれば、それは私自身の意志でもある」
呆れたような溜息がレナルドの口から零れ落ちる。
「まったく、馬鹿な息子だ」
辛うじて聞き取れる声音で囁いて携帯電話を取りあげるレナルドを、ハーヴィーはまじまじと見つめた。次いで、ロイクを見る。
――嘘、だろう?
どう見ても似ていない二人をハーヴィーが交互に見ていれば、ロイクの眉根が僅かに顰められた。
「君がそんな不躾な真似をするとはね…」
「いや、それはそうなんだが…その…」
ごにょごにょと口の中で言い訳をしていれば、ロイクがくるりと踵を返す。
「フレッド、あとのことは任せても?」
「冗談じゃない。僕はあくまでもハーヴィーに手を貸しただけであって、あなたに貸す気はないよ」
ぷいっと顔を背けるフレデリックの態度は、まるで子供のようだった。
「ならクリス」
「おいおい、勘弁してくれよ。お前たちは人使いが荒すぎる」
こちらも首を振るクリストファーに、ロイクはハーヴィーを見た。
「私を見ても仕方がないだろう…」
「君がお願いしたら、フレッドが手を……」
「聞こえているよロイ」
ロイクがすべてを言い終わる前に、フレデリックの不機嫌そうな声が聞こえてくる。と、その時だった。ロイクの背後でレナルドが立ち上がる。
レナルドの手には、何かが握られていた。嫌な予感がハーヴィーの全身を駆け抜けていく。
「っロイ!」
名を呼びながらロイクの袖を引くと同時に小気味の良い破裂音が四度響く。ハーヴィーは、ロイクにしがみついたまま硬く目を閉じていた。
室内に静寂が満ちる。唖然としたのは、ハーヴィーだけではないようだった。
「…空砲か」
そう小さく呟いたのは、クリストファーだった。自身の躰を見下ろしながら吐き出された声には、微かな安堵が混じっている。
「命拾いできたようで何よりだな」
ふっと蔑むような視線を投げて、レナルドはひとりで部屋を出て行ってしまった。閉まった扉に、四人の視線が釘付けになる。
「……無事…だったのか…?」
「ありゃあ相当おかんむりだな」
「どうやら悪ふざけが過ぎたようだね…」
「まったく食えないキツネだよ!」
ハーヴィーにクリストファー、ロイクにフレデリックと、口々に呟いて顔を見合わせる。
「フレッド、曲がりなりにも人様の親をキツネ呼ばわりするのはどうかと思うぞ」
「ああ、構わないよハーヴィー。フレッドのあれは、いつもだからね」
「水と油だからな、あの二人は」
クリストファーまでもが呆れたように笑うのだから、フレデリックとレナルドは相当仲が悪いのだろう。
「しかしどこにあんなものを隠し持って…」
幾分か悔しそうに呟くロイクをの背中を、ハーヴィーは無意識にさすっていた。
「しかしまあ、空砲で命拾いしたな」
「何を言ってるんだいクリス! 空砲だからこそ腹立たしいんじゃないか!」
「死ぬよりはマシだろう」
「いいや、あれは絶対に僕たちを馬鹿にしている!」
ぎゃんぎゃんと喚き散らすフレデリックを横目に、ハーヴィーはロイクの裾を引いた。
「これで本当に終わったのか?」
「どうかな。あとはボス次第だと思うけれど、あの人が認めるのなら反対はしないだろうね」
「あの人が実の父親…なのか?」
「まあ、そうだね」
さらりと肯定するロイクに感傷らしき色は浮かんでいない。実の父親がすぐ近くに居るというのに、どうして養子になどなったのだろうか。聞きたい事は色々あるが、込み入ったことを聞いていいものかどうか悩むところではあった。
けれども、そんなハーヴィーの様子などどうやらロイクにはお見通しであったらしい。
「色々聞きたい事はあると思うけれど、もう少しだけ待ってくれる? 君の知りたい事はすべて、部屋でゆっくり話すから」
「いいのか?」
「もちろんだよ。まあ、君に嫌われはしないかと、少しだけ怖い気もするけどね」
ともあれレナルドが消えた今、ここに居なければならない理由はなくなった。すぐにでも部屋に戻ろうと促すロイクを引き留めて、ハーヴィーはフレデリックの元へと歩み寄る。
「フレッド。今日はすまなかった。…ありがとう」
「どういたしまして。キミが無事で本当に良かったよ」
「クリスもだ、あんな危険な場所に…」
「あれくらいどうという事はない。だが、俺の素性はトップシークレットで頼む」
「ああ、もちろんだ」
今度は食事でもおごらせてくれとそう言って、ハーヴィーはロイクとともに部屋を後にした。
通路を折れたところで、ロイクに腕を引かれる。
「ロイ…!?」
「静かに」
「っ、…んぅ」
反論する間もなく塞がれる唇に、ハーヴィーは自ら舌先を捩じ込んだ。
「ッ、ハ…ヴィ…」
「……ロィ…」
いつスタッフが通りがかるかもしれない場所で、ほんの束の間吐息を貪り合う。どちらからともなく離れた唇を結んだ透明な糸を、ロイクの親指が優しく拭った。
「怖い思いをさせてしまってごめん」
「部屋でたっぷり反省するんだろう?」
「お手柔らかに…」
「その殊勝な態度がいつまでもつのか楽しみだ」
トンとロイクの胸を拳で軽く叩いて、ハーヴィーは元の通路へと戻った。
◇ ◆ ◇
翌日、ハーヴィーは再び教会へと車を走らせていた。助手席にロイクを乗せて。
昨日の事故現場を数百メートル過ぎたところで、車を停めるようにロイクが言った。
「この辺りのはずだけれど…」
車から降りるやいなや、地面へとしゃがみ込むロイクをじっと見つめる。
「証拠があったとして、いったいどうするつもりでいるんだ」
「それはもちろん……あった」
「え?」
言葉を途切れさせたロイクの元へと歩み寄る。同じようにしゃがみ込もうとすれば、ロイクは少しだけ横に躰をずらした。
「ここだよ。わかるかい?」
「なにかの跡か?」
「バイポットの跡だね。ここから、昨日君の車は撃たれたんだよ」
あっさりと立ち上がったロイクに手を差し伸べられて、ハーヴィーもまた立ち上がる。ロイクが指した先に、昨日の事故現場が確かに見えた。
「こんな距離で…」
「ここは高さもあるし、視界も悪くない。風が少々厄介な地形だけれど、昨日は北西の風で、ここからならば影響はほとんどなかったはずだよ」
「そうなのか…」
風向きまで調べているロイクには溜息しか出ない。だが、だからこそハーヴィーには懸念があった。
「それで、調べてどうするつもりなんだ」
「ああ、それはね、フレッドが裏切っていないかを知りたかっただけだよ」
「え?」
「腕の良い狙撃手というのはそうそう居る訳じゃない。昨日君を狙ったのがフレッドの部下じゃないかを確かめたかったんだ」
「それで…どうなんだ?」
「この程度ならファミリーの人間にはいくらでもいるレベルだね。それに、フレッドの部下ならこんな痕跡を残すようなミスは犯さない」
今しがた見つけたばかりの跡を靴底で踏みにじり、ロイクはあっさりと車へと戻っていった。
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