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教会へと顔を出し、近況を聞いて安心したハーヴィーがロイクとともにホテルへと到着したのは午後七時を過ぎた頃だった。ブドウ畑の見下ろせる、いつもの宿だ。
チェックインの後でそのまま食事を済ませたふたりは、部屋のソファにゆったりと腰掛けていた。
「疲れたかい?」
「いや」
ふたりきりの時にだけ、ロイクの声が変わる。フレデリックに似ていると思っていた声よりも断然低いロイクの声は、そちらが地声なのだと言うから驚くばかりだ。
どうして声を作っているのだと聞けば、フレデリックに対する嫌がらせだと言ってロイクは笑った。それに、仕事によって使い分けるとも。
「昨日はあまり眠れていなかっただろう?」
気遣うように掛けられる低い声が耳に心地良く響く。確かに昨日は色々なことがありすぎて、なかなか寝付くことが出来なかった。
◇ ◇ ◇
ロイクの居るロイクの部屋は、今朝までそこに居たというのに何故か懐かしい気がした。
ソファでも椅子でもなく、寝台に腰を下ろしたロイクに手招かれ、ハーヴィーは隣に座る。
「何から話そうかな…」
困ったようにぽつりと呟かれたロイクの言葉に、ハーヴィーは金色の頭をゴツリと拳で叩いた。
「痛いよハーヴィー」
「当たり前だ馬鹿者が! 話をする前に謝るのが先だろう! 二週間もどこに行っていた!?」
どれほど心配したと思っているのだと、まくし立てればロイクは小さく謝罪の言葉を口にした。
「君の顔を見るのが怖かった。また君に…顔も見たくないって言われるのが怖かった。こんな気持ちになったのは初めてで、どうすればいいのか分からなくて…」
「子供か貴様は!」
「ごめん…」
今までの尊大な態度はいったい何だったのかと思うほどに、弱々しいロイクの姿に驚きを隠せない。それほどまでに、思い詰めていたとでもいうのだろうか。
なんだか居たたまれなくなって、ハーヴィーは小さく溜息を吐いた。
立ち上がり、キッチンで紅茶を淹れる。室内を満たす重い空気を、落ち着いた紅茶の香りで塗り替えてしまいたかった。
「すまない…。私も少し言い過ぎた」
ティーカップをロイクの目の前に差し出して言えば、「ありがとう」と大きな手がカップを包んだ。
ぽつりと、ロイクの口から言葉が零れ落ちる。
「あの時…」
「あの時?」
いつのことだと聞き返せば、幾分か力を取り戻したロイクの声が今度ははっきりと言葉を紡ぎ出した。意を決したとでもいうように。
「シャワールームで君に言いそびれてしまったことを、今なら聞いてくれる?」
ハーヴィーが小さく頷けば、ロイクは嬉しそうに微笑んだ。
「君にシャワールームを追い出されてすぐに、僕は自分の過ちに気づいてね…。浮かれた僕の不用意な言葉が君を傷付けてしまったのだと」
「些細な事だと笑えば良かっただろう。いつもあなたはそうしてきた」
「そうだね。けど、あの時の僕にはそれが出来なかった。それよりも心が痛くて、君に遠ざけられてしまったことがショックで…どうしようもなかった」
まるで思い出すように固く目を閉じるロイクを見つめ、ハーヴィーは口を開いた。
「私には…あなたが本音で話しているのかさえ判断がつかない。あなたの何を信じればいいのかもわからない」
「参ったな…」
心底困ったように呟いて、ロイクが自嘲のような笑いを零す。そっと大きな手に頬を挟み込まれて、ハーヴィーはロイクと向かい合った。
「ロイ…?」
「この部屋で君と過ごし始めてから、僕はずっと君に本音しか言ってない」
「っ…」
何と言って良いのか、わからなかった。すぐ目の前の澄んだ碧い瞳は、到底嘘を吐いているそれではなかった。
絶句するハーヴィーの額にロイクが口づける。
「僕は君が好きなんだよ。ハーヴィー」
「嘘だ…だってあなたは…」
「後悔してるよ。君を最初に怖がらせてしまった。言い訳にしかならないけれど、君の本当の性格を知った瞬間に僕は絶望を覚えたよ。取り返しのつかない愚を犯した、とね」
――馬鹿な…。
そんな思いが脳裏を過る。否、だからこそロイクを信じてみたいと、そうハーヴィーは思ったのかもしれなかった。
「もし君が許してくれるのなら、僕の恋人になって欲しい」
「っ…」
「今さらかもしれないけれど、ね」
「まったくだな。……だが、信じてやらなくもない…」
ぼそりと呟くように言った瞬間、力強い腕に抱き締められる。それはもう苦しいほどに。頬がぴったりと張り付いた逞しい胸からは、心配になるくらい速い鼓動が伝わってきた。
「ロイ…苦しい…」
「あぁ、ごめんごめん。嬉しくてつい」
幾分か腕の力は弱まったものの、離す気のないロイクを胸元から見上げる。聞きたい事は、山ほどあった。
「他にも、聞きたい事がある」
「そうだね。君が知りたいというなら、何でも話そう」
レナルドに言った言葉に嘘はないと、ロイクはそう言って微笑んだ。
「込み入ったことを聞いても…?」
「レナルドのことだね?」
「ああ…。父親、なんだろう? なのにどうして養子に?」
「ボスのアドルフにはレティシアという奥さんが居るんだけれど、彼女は子供が産めない体質でね。代わりにアンダーボスであるレナルドが子供をもうけた」
「それが、あなたなのか」
返事をする代わりに、大きな手が髪を撫でていく。
「実を言うと、僕はむかし躰が弱くてね…」
「は?」
冗談なのか本気なのかわからない口調で言われ、ハーヴィーはロイクを見上げた。
「それを懸念したアドルフは、僕の他に養子を二人迎えた」
「フレッドとクリスか」
「そう。僕もまだ物心ついてすぐの頃だったかな…。あの頃のフレッドは僕に似て可愛らしくてね。クリスは本当に女の子みたいだったよ」
くすくすと笑うロイクは、昔を思い出しているようだった。
「まぁでも、この通り僕は人より頑丈に育ったし、そんなアドルフの心配は杞憂に終わった訳だけれど、だからといって引き取った養子を捨てるような人じゃない」
「だったらあなたが後継者になってもおかしくないんじゃないのか」
「それはそうだけれど、人には向き不向きというものがあるんだよハーヴィー」
「あなたは向いていない?」
「そうだね。君も知っての通り僕は我儘だし、トップに興味もない」
自由が好きなのだとロイクは言った。
「その…マフィアというのは、自由なのか?」
「どうかな。考え方によっては自由だし、不自由な面もある」
「たとえば?」
「何よりも組織の決定が優先される。代わりに、普通では考えられない報酬を得られる。…というのは綺麗事だけどね」
「実際は?」
なんの気なしに問いかけたハーヴィーの頤を、大きな手が捉えて上向かせる。
「ねぇハーヴィー。君は、後悔するかもしれないよ?」
ゾクリと、背筋を冷たいものが流れ落ちる。息をするのも苦しいくらい、ロイクの纏う空気が重くなっていく。
「……ロイ…」
「僕の仕事は人を殺すこともある。こうして君のように怯える相手を僕は何人も殺してきたし、これからも殺すだろう」
ゆっくりと近付いてくるロイクに、ハーヴィーは無意識に首を振っていた。
べろりと、唇を舐めあげられる。
「君の隣に居るのは紛れもない犯罪者だ。それを、忘れないで」
低いロイクの声が怖かった。けれどハーヴィーには、すぐ目の前の碧い瞳の奥に底知れない寂しさが宿っているように思える。そう思ったら、幾分か重苦しい空気が和らいだ気がした。
腕を、持ちあげる。
「ロイ…、それでも私は…あなたのそばに居る」
大きな背中へと腕を回して、ハーヴィーはめいっぱい抱き締めた。
「レナルドに言った言葉は嘘じゃない。あなたが引鉄を引くのなら、それは私の意志でもある」
どう言えばいいのか分からない。どうすればロイクに伝わるのか分からない。
ただ、突き放されるのだけは嫌だった。
「後悔などしてやるものか」
ぎゅっと目を閉じてロイクにしがみつけば、ふっと躰が軽くなる。否、ハーヴィーはロイクに抱えあげられていた。
「っ!?」
「Comme tu es merveilleux, Harvey!」
浮遊感に慌てる暇もなく、ハーヴィーは寝台に倒れ込んだロイクの胸の上に乗せられていた。
「浮かれすぎだ…」
ロイクが紡ぎ出したフランス語は、ハーヴィーにも理解が出来た。だがしかし、素敵だと騒ぎ立てられるようなことを言った自覚がない。
――いや、ロイクがそう思うのならそれでいいか…。
もとより大袈裟な男なのは知っている。それに、ハーヴィーの想いが伝わったのであれば何の問題もなかった。
浮かれるロイクを宥めすかし、他にもいくつか聞きたい事を聞いているうちに、あっという間に夜は更けていった。
◇ ◇ ◇
明日の午後には、ふたりとも職務に戻る。丸一日をレナルドとの騒動で潰してしまい、短い休暇はあっという間に終わりを迎えそうだった。
「あなたこそ、寝れていないんじゃないのか」
「君の寝顔が可愛くて、いつもうっかり寝そびれてしまうんだ」
「つまらない冗談はよせ」
ばっさりと切り捨てれば、ロイクは可笑しそうに笑った。
「半分は、本気なんだけどな?」
「いつも寝そびれるのがか?」
「君は意地が悪い」
抗議するかのように首筋へとじゃれついてくるロイクを片手で押し退ける。それでもしつこく纏わりついてくるロイクは、人懐こいトラかなにかのように思えてくる。
「あまり僕を揶揄ってばかりいると、仕返しをしたくなってしまうよ?」
「ッ…」
耳元に囁く低い声に、ハーヴィーの肩がぴくりと跳ねた。圧倒的な腕力の差があるのもさることながら、まだ耳慣れない声が余計に緊張を増幅させる。
「それとも、わざと僕を煽ってる?」
「…そうだと言ったらどうするんだ」
悔し紛れに言ってみたものの、緊張に声が掠れて後悔する。けれど、ロイクは気にした様子もなくけろりと答えた。
「もちろん、君の望むままに君を美味しくいただくつもりだけれど」
艶やかな声は、あっという間に卑猥な水音へと変わる。耳に差し込まれた舌先がぐちゅりと音をたてた。
「っ、やめ…」
「このまま、君のすべてを侵し尽くしてしまいたい」
「ぁっ、ロ…イ…」
「僕を煽るなんて、君はいつからそんなにはしたない子になったの?」
いつまでも耳ばかりを弄るロイクの頭を掻き抱く。流されてしまえと、そう思った。
「はしたない私は嫌いか、ロイ…?」
「まさか。大好物だよ」
まさしく好物に食らいつくように、ロイクはいともたやすくハーヴィーを組み敷いた。
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