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ハーヴィーの服は、あっという間にロイクに剥ぎ取られた。そのうえ逃がすまいとでもするかのようにソファに座るハーヴィーを長い脚で跨ぎ、シャツのボタンを外していく。
あっという間にはだけたシャツの合間から、痛々しい傷跡が覗いてハーヴィーは思わず目を逸らせた。
「そういえば」
思い出したとばかりにぽつりと呟かれるロイクの声。何事かと顔を上げたハーヴィーは、聞こえてきた声に凍り付いた。
「以前この傷に嫉妬していたよね」
「な…っ!?」
「この傷をつけた痴話げんかの相手、誰だか知りたいかい?」
「別に誰でもいい!」
覚えていなくても良いことを覚えているのが憎らしい。あまつさえこのうえなく愉しそうに問いかけてくるロイクが腹立たしい。
誰でも良いと言ったのは、ハーヴィーの本心だ。今さらロイクの過去の相手を知ったところでどうなるものでもなかったし、知りたいとも思わない。
「今さら知ったところで傷跡が消えるわけでもなし、もう気にしていない」
「そう?」
「ああ」
きっぱりと言えば、何故か不服そうにロイクが唸る。
「もう少しこう…独占欲を見せてくれても…」
「はあ?」
「あっ、そうだ」
「……なんだ」
嫌な予感が、ひしひしとしていた。
「君がこの傷を上書きしてくれてもいいんだよ?」
「………」
「あれ? ハーヴィー?」
「……馬鹿じゃないのか貴様」
意図せずとも零れ落ちた声は低かった。吐きたくもない溜息が零れ落ちる。
「どうして私があなたの躰を傷付けなければいけないんだ」
「僕の躰に傷をつけていいのは君だけだから」
何故だか誇らしげにも見える態度で言い放つロイクの真意がわからない。どうにも度し難いロイクの思考回路に、ハーヴィーは人差し指で三度、自らの蟀谷を叩いた。
「つまり何か、あなたは昔、その傷をつけた相手に心を捧げていたと、そう言いたい訳だな?」
「ストップ。それは違う」
「どう違う」
随分上にあるロイクの顔を、上目に見据える。
「た、確かに仕事のうえでは今後そういう立場になるかもしれないけれど…、誓って僕の心はハーヴィーのものだから…」
なぜか突然歯切れの悪いロイクの台詞を脳内で反芻して、ハーヴィーは気づいてしまった。痴話げんかをしたという、その相手の正体に。
「…フレッドか」
「いやでも別に恋人だったとかそういう関係ではないから…! ほ、ほらっ、何といっても十年以上前の話だし…っ」
「何をそんなに焦っている」
慌てるロイクの額を片手で小突き、ハーヴィーは溜息を吐いた。
「どうやったらそんなに深い傷が残るような事になるんだ…?」
「……撃たれたから」
「ッ!?」
咄嗟に、言葉が出なかった。
「撃たれた…って、義理といえど兄弟だろう…?」
「でも僕は生きているし、フレッドはこの傷が自分のものとか言ってるけれど…、僕はもうハーヴィーのものだから…っ」
ロイクの台詞に違和感を感じ、ハーヴィーははたと黙り込んだ。何か、大事な部分がことごとく擦れ違っている気がしてならない。
「フレッドが何を言っても、君は何も心配しなくていいからね?」
言い募るロイクの言葉に、違和感が気のせいではないと確信する。
「ロイ、私が言っているのはそういう事じゃないんだが」
「え?」
「あなたが何にそんなに焦っているのかは分かった。だが私はそんな心配をしているんじゃないと、そう言っている」
ハーヴィーは、ロイクの頬をぴしゃりと両手で挟んだ。
「そんな事よりも、あなたには自分の躰を大事にして欲しい」
「ハーヴィー…」
驚いたように目を見開くロイクを見上げ、ようやく通じたかと安堵の息を漏らす。が、しかし。
「本当に? ちゃんと僕を信じてくれるね?」
やはり言い募るロイクにハーヴィーは唇を戦慄かせた。
「だからそれは分かったと言ってる! それよりも私はあなたの心配をしてるんだ!」
「どうして?」
「どうしてだと!? そんな大きな傷を負っておいて良くもぬけぬけと言えるな!」
「確かにこれはそうだけど、十年以上も前の傷だよ? それに、僕を傷付けていいのは君だけだって言ったじゃないか」
ケロリと言い放って、ロイクが首を傾げる。
「君以外にこの躰を傷付けさせるつもりはないから安心して?」
「言いきれるはずがないだろう…」
マフィアなどという職業に、危険なことがないはずもない。
「命を狙われることだってあると…、フレッドから聞いている」
「まったく、どうしてそう余計なことを吹き込むのかなぁあの子は…」
独り言のように呟きながら、ロイクはくしゃくしゃと金色の髪を掻き回した。
「でもね、ハーヴィー。それと僕が怪我をする事とは話が別だよ。まぁ、怪我をするマフィアはどこにでもいるだろうけれど」
「……あなたも同業者だろう」
「僕をその辺の連中と一緒にしてもらっては困る。君は知らなくても仕方ないけれど、僕はこれでも強いんだよ? この傷はちょっと訳があってフレッドに撃たれてあげたけれど、それ以外に怪我をした事なんて一度もない」
心外だとばかりに言い切るロイクを唖然と見上げる。それよりも、「撃たれてあげた」とはいったいどういう事かと聞き返したい。
だがしかし、ハーヴィーが問い詰めるまえに、唐突にロイクに頭を抱き締められて言い出すタイミングをすっかり逃す。
「っロイ!」
「それよりも、僕にとっては君に誤解される方がよっぽど困るんだよハーヴィー。頼むからフレッドの口車なんかに乗せられないで欲しい」
そんな馬鹿げた話があるかと、そう思った。けれど、ロイクの声はこのうえなく真剣なのだから呆れ果てるしかない。
「なら何か? あなたはそれで私に傷をつけろと言ったのか?」
「そう。それならフレッドが何を言おうと、僕は君のものと言い切れるだろう?」
フレデリックがそんなことで優位性を示すとは、到底思えなかった。否、確かにロイクへの態度を見ていれば嫌がらせでもしかねないフレデリックではあるが、そんなものは昔の話だ。ハーヴィーの気持ちが揺らぐはずもない。
「……すまないがロイ、私とフレッドの価値観を一緒にしないでくれないか」
いったい自分はなんの話をしているのかと、ハーヴィーは項垂れた。しかも、全裸で。そう思ったら一気に気分が萎えて、ハーヴィーは脱力した。
「馬鹿馬鹿しい。私はもう寝る」
「ええ!?」
「興が醒めた」
するりとロイクの腕を抜け出して、ハーヴィーは寝台に潜り込んだ。ロイクが入り込んでも断じて振り向いてなどやるかと、そう思う。
肩に回されたロイクの腕を振り払い、ハーヴィーは視線だけを肩越しに投げた。
「人の心配を無駄にする奴などもう知らん」
「そんなぁ…。お互い大事な部分が少し違っただけだろう? そんなに怒らなくても…」
「ちなみに教えておいてやるが、価値観の違いはどこの国でも離婚原因の第一位だ。よく覚えておけ」
ふいと顔を背けたハーヴィーの背中に、ロイクが飛びついたことは言うまでもなかった。
「冗談にしても笑えないよ、ハーヴィー…」
死にそうな声が耳元に囁いた。首筋に顔を埋めるロイクの髪が、動くたびにさらさらと頬を撫でる。
「反省しろ」
「した!」
即座に返される返事の必死さに、思わず笑いが込み上げる。堪えきれずに零れた吐息は、どうやらロイクの耳にもしっかりと聞こえていたようだった。
腰に回された逞しい腕がハーヴィーの躰を軽々と持ち上げる。ぐるりと視界が回転したかと思えば、あっという間にロイクの胸に抱えあげられていた。
「なっ!?」
「僕がこんなに必死になってるっていうのに笑うなんて…!」
酷い酷いと喚き散らすロイクの唇を、苦い弧を描いた唇で塞いだ。
「少しは大人しくしていられないのか?」
「君の機嫌が直るまで黙らない」
「勘弁してくれ…」
本来なら機嫌が直るどころか余計に機嫌を損ねるところだが、それよりも何よりも気分が滅入る。
「お願いだから機嫌を直して? ハーヴィー」
見上げてくるロイクの目が捨てられた子犬のようで困る。
「そんな目で見ても無駄だ…」
「けど、僕を許したくなってる」
「なってない」
「…嘘吐き」
「なってない」
「嘘って言って?」
どうでもいいくだらない遣り取りがさすがに馬鹿馬鹿しくなって、ハーヴィーは溜息を吐いた。ロイクの目が輝くのは腹立たしいが、どうせこのまま続けたところで根負けするのがオチだろうと。否、既に根負けしているといっても過言ではなかった。
「ねぇハーヴィー…、嘘って言って? 怒ってないって言って?」
「わかったから少し離れろ…!」
ロイクの上から降りようとしても、腰をしっかりと抱えられていてはどうにもならない。
「ねぇ、離婚しないって言って?」
「結婚した覚えもない!」
「じゃあしよう」
「はぁ!?」
あまりにもナチュラルに告げられた言葉に唖然とする。
ハーヴィーは、自身の状態も忘れてすぐそこにあるロイクの顔をまじまじと見つめた。
――今のは…プロポーズ…だよな…?
色気も何もないが、会話の内容的には間違っていないと確信する。
「ロイ」
「うん?」
「まさかとは思うが今……」
確認しようとして、ハーヴィーはだが口を噤んだ。どう確認すればいいのだと。
どう言えばいいのか分からなくなって視線を彷徨わせていれば、ロイクの怪訝そうな声が聞こえてくる。
「ハーヴィー?」
「あ、いや…、なんでもない」
「嘘吐き。本当は聞きたくて仕方がないくせに」
「っ…」
「でも、今のは保留にしておいて? 今度ちゃんと、正式に君に結婚を申し込むから」
「な…っ」
カッと顔に熱が集中するのが分かる。顔を背けようにも逃げようもなくて、ハーヴィーはおろおろと視線を逸らせるのが精いっぱいだった。
ぎゅっと、腰を抱いた腕に力がこもる。
「ごめんね、ハーヴィー。悪ノリが過ぎてしまったね」
「っ、あなたは…心臓に悪い…」
「だって、君が結婚なんて言うからつい舞い上がってしまって」
くすくすと柔らかく笑いながら肩を竦めるロイクの顔も、少しだけ赤いようだった。
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