ゴーストとティータイム

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   ◇   ◆   ◇  サウサンプトンを出港して二日。ハーヴィーは船内の通路をある場所へと向かって歩いていた。  明日の挙式の事で相談があるとフレデリックから連絡があったのは二時間ほど前の事だ。明日、船内にあるチャペルではゲストの挙式が予定されていた。  参加者のリストを片手に通路を曲がる。緩く描いたカーブを抜ければ、吹き抜けになったガラスの天井から差し込む光の中に佇む建物が見えた。  いつ見ても美しいその姿に表情を緩め、辺りを見回すが肝心のフレデリックの姿はなかった。  時計へと目を落とし、僅かに眉根を寄せる。約束の時間までは数分を残していたが、これまでフレデリックは遅刻どころか五分前より遅れたこともない。  何かトラブルでもあっただろうかと、携帯電話を取り出そうと胸元に手を差し入れたその時、ふと背後に気配を感じた。 「フレ……、っ!?」  振り返ろうとしたハーヴィーの口許は、大きな手で塞がれた。次いで視界が闇に閉ざされる。 「ッ!」 「静かにしろ」  低く囁かれた男の声は、フレデリックのものではなかった。途端に背筋を冷たい汗が流れ落ちる。  大声を出すのは得策ではないと、それくらいの判断は出来た。落ち着けと自らに言い聞かせて、ハーヴィーはゆっくりと頷いた。  ゆっくりと口許の手が離される。代わりに、ハーヴィーは頭を袋のようなもので覆われた。  防犯カメラの位置を思い出そうと思考を巡らせた瞬間、右の方へと強引に引き寄せられる。次いで後ろ手に手首を固定されて、ハーヴィーはあっという間に自由を奪われた。  手際の良さに、レナルドの顔が脳裏を過る。やはりマフィアなのだろうかと考えていれば再び低い声が耳に流れ込む。 「歩け」  閉ざされた視界の中、男に引かれる方へとハーヴィーは足を踏み出した。どうやら男が向かっているのは、建物のそばに建つ東屋のようだった。  ――フレッドが来るまで時間を稼げれば…。  どうにかなるかもしれないと、そう思った。船内でのトラブルは日常茶飯事で、クルーはみな護身術を身につけている。  もちろんハーヴィーとて例外ではないが、背中に当たる胸板は厚く、あっさりと自由を奪った手際の良さを考えれば背後の男に勝てる見込みはなかった。無謀と勇敢は違う。常々トレーナーに言い聞かされている言葉を、ハーヴィーは忘れたことはない。  ふとロイクの姿が脳裏に浮かんで僅かに眉根を寄せる。ロイクなら、あるいはフレデリックやクリストファーなら、男を取り押さえることは簡単だろう。僅かな悔しさがハーヴィーの胸を過る。山荘での光景を思い出せば、自分の非力さを自覚せざるを得なかった。  緊張のせいで次第に早くなっていく呼吸を整えようと、意識して大きく息を吸い込む。ふと嗅ぎ慣れた茶葉の香りがした気がして、ハーヴィーはもう一度すんと鼻を鳴らした。  ぽつりと、無意識に呟いていた。 「アッサム…?」  ぴたりと、男の足が止まる。次の瞬間頭の覆いを外されて、ハーヴィーは眩しさに目を瞬かせた。 「正解」 「っ…な」  耳慣れない声音のまま、ロイクが顔を覗き込んでいた。 「ロイ!」 「まったく、君の嗅覚には恐れ入るよ。匂いで気づかれないようにと思ったけれど、まさか紅茶の銘柄を呟くとは思わなかった」  可笑しそうに笑うロイクをキッと睨みつける。 「なんの真似だ…」 「ただのデモンストレーションだよ。君が冷静なのは知っているけれど、いざという時に君がどう動くのかを知りたかった」 「フレッドもグルという訳か…」  答えることなくにこりと微笑んだロイクに溜息を吐く。 「それで? 今後私は何度こんな思いをすればいい」 「もう二度と。もし次に君が同じような目に遭ったとしたら、それは本物の危機だと思ってくれていい」 「なるほど。あなたやフレッドのイタズラだろうと思うのは今回限りにしておくよ」 「そんなこと思ってもいなかったくせに」 「あなたたちのせいで今後思いそうだ。まったく余計なことをしてくれる」  小さく首を振るハーヴィーの頬に、ロイクが口づける。 「ごめん。けど、有事の際に君がどう動くのかを、僕はどうしても知っておかなきゃならなかった」 「……分かっている…」  不服ではあれど、ロイクの言わんとしている事を否定するつもりはなかった。低く呟けば再び頬に口づけられる。 「それよりいい加減腕を解いてくれないか」 「それはもう少し待って?」  要求をさらりと一蹴したロイクに拘束されたままの腕を引かれ、ハーヴィーはチャペルの中へと入った。会衆席(ネイヴ)を進み、祭壇(オールター)の前で足を止めたロイクに、ハーヴィーもまた立ち止まる。 「ロイ…、まさかとは思うが…」  答えを聞く以前に顔が熱くなってくる。そんなハーヴィーを抱き締めるように、ロイクは拘束していた両腕を解いた。 「別に挙式をしようというのじゃない。ただ、君にこれを受け取ってほしかった」  そう言ってどこからともなく取り出された小箱には、シンプルなプラチナのリングがふたつ納まっていた。 「どうしてチャペルなんかで…」 「君は教会で育ったろう? だから、僕も神様の前で君に誓おうと思って」 「神様なんて信じていないのにか」 「それは君も同じだろう?」  あっさりと返されて、ハーヴィーは笑みを零した。 「どちらもこの場所には似つかわしくないな」 「けど、ここはこの船の中で一番美しい」 「それは同感だ」  同意を示せばロイクに左手をそっと握られて、ハーヴィーは視線を彷徨わせる。ぴくりと指先が震えるのを、止めることが出来なかった。  逃げないでと、懇願にも似た声がロイクの唇から零れ落ちる。 「に、逃げたい訳じゃない…。その…恥ずかしくて…」 「ふふっ。実を言うと、僕も少し恥ずかしい」  ハーヴィーをそっと引き寄せて、心臓の音を聞かせるように胸元へと抱き込んでロイクは小さく笑う。 「ね?」 「っ…馬鹿、余計に恥ずかしくなるからやめろ」 「せっかく、君にだけ僕の秘密を打ち明けたのに…」  拗ねたように呟くロイクがふと僅かに屈みこんで、ハーヴィーの耳元に囁いた。 「こんなに僕をドキドキさせるのは君だけだよ。銃口を向けられても、こんなに緊張したりしないっていうのにね…」 「ロイ…頼むからもう勘弁してくれ…」  逃げられない腕の中でハーヴィーが俯きがちに呟けば、くすりと笑い声とともに左手を持ちあげてロイクが口づけた。 「指輪を、受け取ってください」  改まった口調で告げられる。ハーヴィーは、こくりと小さく頷いた。  他人に指輪を嵌めてもらうのなどもちろん初めてで、どんな顔をしていればいいのかわからない。  左手の薬指に嵌まった指輪に軽く口づけるロイクへと、ハーヴィーは右手を差し出した。きょとんとその手を見つめるロイクへポツリと呟く。 「…指輪」  ただ一言だけで、ロイクの顔に満面の笑みが浮かんだ。掌に乗せられたリングを摘まみ上げれば、待ちかねたように左手を差し出されて苦笑を漏らす。  些かぎこちない手つきで指輪を嵌めるハーヴィーを、ロイクが嬉しそうに見つめていた。 「今日は人生で最高の日だ」  大袈裟すぎると笑うには、ロイクの顔はこのうえなく幸せそうで。ハーヴィーは困ったように視線を逸らせた。すると、不意にロイクが床に傅く。 「っロイ!?」 「ハーヴィー・エドワーズ。僕のこの身に流れる血に誓って君を幸せにすると約束する」  フレデリックにしたように、捧げ持った左手へと額をつけて囁く金色の頭を見下ろした。名前を呼べばゆっくりと碧い瞳がハーヴィーを見る。 「なんて、ね。ちょっと気障だったかな…?」  ハーヴィーの返事を待たずにロイクが立ち上がった。あっという間に自分よりも高くなった視線を見上げる。 「自覚があるなら最初からするな、恥ずかしい…」 「けど、君にだけは…ちゃんと言っておきたかった」  ふわりと温かな熱に包まれて、ハーヴィーは苦笑を漏らした。どこまでも気障なロイクにはほとほと困り果てるが、それも悪くはない。 「頼むから今回だけにしてくれ…、心臓がもたない…」 「冗談だろう? 記念日にはディナーに薔薇の花束、素敵な景色を君にプレゼントしようと思ってるのに」 「やってみろ。その場でこの指輪を返してやる」 「ええっ!?」  ロイクの悲壮感極まりない悲鳴がチャペルに響く。ハーヴィーはロイクの肩を叩いて踵を返した。 「ハーヴィー?」 「もう用事は済んだだろう。いい加減息が詰まる」  これ以上ロイクに付き合っていたら羞恥でどうにかなってしまいそうだった。入口へと向かうハーヴィーの歩調が、意識せず速くなる。  ハーヴィーの後ろにロイクが続く。どうやらロイクもまた、気は済んだようだようだった。  チャペルの扉を開ければ、外にはフレデリックの姿があった。その視線が左手へと向いて、何もかも知られているのだと気づく。 「やあハーヴィー、ロイのプロポーズはどうだった?」 「悪趣味な質問に答える趣味はない」 「ええっ!? せっかく僕がお膳立てしたんだから、少しくらい教えてくれてもいいだろう?」 「断る」  きっぱりと切り捨てて、ハーヴィーはふと持っていたはずの書類が無いことに気づいた。 「ロイ、私が持っていた書類はどうしたんだ?」 「ああ、それならそこにあるよ」  ロイクの指した先は、東屋だった。今の今まで忘れていたことに愕然とする。  そんなハーヴィーの様子に気づいたのか、フレデリックが穏やかに微笑む。 「大丈夫だよハーヴィー。キミたちが中に入ってからずっと、僕がここに居たから」 「すまない。手間をかけさせた」  生真面目に礼を言えば、フレデリックがすくりと笑った。 「キミは本当に、そういうところは真面目だよね」 「う、うるさい…。仕事とはそういうものだ馬鹿者」  痛いところを突かれても、ハーヴィーに言い返せるはずもない。むしろ失態をなじられる方がまだマシというものだ。だが、フレデリックはにっこりと嫌味なほどの笑顔を顔面に張り付けた。 「なるほど。それでキミは、ロイにうつつをぬかしてうっかり書類を忘れてしまった自分を恥じていると、そういうことかな?」 「フレッド…お前、マフィアだと明かしてから随分とくだけてくれるじゃないか」 「ふふっ。僕なりの愛情表現だと思ってくれて構わないよ?」 「そんなものはお断りだ」  反省する気も失せてハーヴィーがふいと顔を背ければ、フレデリックは増々笑みを深めた。 「そうだよねぇ。ロイにたっぷり愛してもらえれば、僕からの愛情は要らないよねぇ」 「どうしてそうなるんだお前は!」  噛みつく勢いのハーヴィーの肩を、ロイクの大きな手がそっと抑える。その手が、するりと腰へと滑り落ちた。 「フレッド。僕の子猫ちゃんをあまり苛めないほうがいい。さもないと君の大切なペットの安全が脅かされることになる。よく覚えておくことだね」 「あなたがまた辰巳にそのお綺麗な顔を潰されたいというのなら、僕に止めるつもりはないよ」  すぐさまバチバチと火花を散らすロイクとフレデリックを交互に眺め遣り、ハーヴィーは盛大な溜息を吐いた。  ――顔を合わせればすぐにこれだ…。  安全が保障された訳ではない今の状況を考えればどちらも頼もしくはあるが、会うたびにこう言い合いを始めてしまうのはいただけない。ともあれフレデリックとの打ち合わせを終わらせてしまうのが先決だった。  ロイクの温かな腕を抜け出し、ハーヴィーはフレデリックの前に立った。打ち合わせなどさっさと終わらせるに限る、と心に決めて。
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