ゴーストとティータイム

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   ◇   ◇   ◇  その夜。ハーヴィーが部屋へ戻ればロイクはいつも通りの様子で出迎えた。お疲れ様と穏やかな声に上着を脱ぎながら返せば紅茶の馨しい香りが漂ってくる。  いつの間にかこの部屋へ帰って来るのが当たり前になってしまったハーヴィーは、カップを目の前に差し出すロイクを見上げた。 「今日、私の部屋の片付けをしてきた」 「え?」  カップに手を掛けたまま、きょとんと見下ろしてくるロイクを見つめる。 「使っていないのなら部屋を空けろと、キャプテンからのお達しだ」 「フレッドが?」 「私物があってはメンテナンスも入れられないとお怒りでな。それか私が部屋に戻るのなら止めないそうだ」  そう告げた時のフレデリックのニヤけた顔を思い出せば呆れもするハーヴィーではあるが、メンテナンスもせずに放っておけば部屋が傷むと言われてしまえば反論のしようもない。  思い返せばもう半年以上もハーヴィーは自室を空けている。たまに掃除をしていても人の生活しない部屋というのは不思議と荒れていくもので、ハーヴィー自身も気になってはいたのだ。 「そういう訳で、私が部屋に戻るかどちらかの部屋を空けるか決めろと言われた」 「なるほど。それで、君はどうしたいんだい?」 「どちらかを空けろと言うならあなたの部屋を空けてもらう。それが嫌なら私が部屋に戻るだけだ。どちらにしても、それならフレッドも文句はないだろうからな。あとはあなたが決めればいい」  このままロイクの部屋に残るという選択肢は最初からハーヴィーの頭にはなかった。荷物をすべて移動するとなれば、部屋にあまり物を置いていないロイクが移動する方が断然効率的だ。ハーヴィーがロイクの部屋に持ち込んだものなどたかが知れている。 「本当に? 僕に選ばせるつもり?」  するりと背後から伸びてきた腕に抱えられる。次の瞬間、ずっしりと肩に掛かった重みにハーヴィーは顔を顰めた。 「重い…」 「君の気持ちは、教えてくれないのかな?」  肩に乗った形の良い顎が動いて、ハーヴィーはわざとらしく溜息を吐く。 「確かに、あなたの淹れる紅茶が飲めなくなるのは少々惜しい気がするな」 「まったく、この期に及んで可愛くない事を言ってくれるね」 「賛辞のつもりだが」  ロイクを背中にはりつけたままカップを口許へと運ぶ。程よい渋みと香りが口の中に広がって、ハーヴィーは満足げに笑ってみせた。 「私の部屋では不満か?」 「今度は僕がペットになったと噂になりそうだね」  可笑しそうに笑いながらロイクが頬を寄せて、ハーヴィーは小さく笑った。確かに、何かと話題にしたがるクルーにとっては恰好のネタだろう。 「謹んで肯定しておくべきか?」 「僕のご主人様はとても優しいから、愛するペットをたくさん甘やかしてくれると自慢しておかなくちゃね」 「勘弁してくれ…」  図に乗るロイクへと首を振り、ハーヴィーは片腕を金色の頭に乗せた。 「ロイ」  引き寄せずとも、名前を呼べば唇を塞がれる。瞬く間に深く重ねられた唇から、吐息とともに囁くような声が流れ込んだ。 「愛してる…僕の可愛いハーヴィー…」  口づけの合間に囁かれる言葉が全身を満たしていくようだった。 「ぁ、も…ぅ、ロイ…」 「この部屋で、最後の思い出を作ろうか」 「っ……馬鹿」  思いもよらない台詞に赤面したハーヴィーをロイクがあっさりと抱えあげる。もはや抵抗すらする気にならない手際の良さに呆れ返り、ハーヴィーは大人しくシャワールームへと運ばれることとなった。  相変わらず我儘なロイクの髪と躰を洗わされたハーヴィーは、おざなりにボタンを留めただけのシャツを羽織った姿で冷蔵庫から取り出した炭酸水を煽った。 「僕も飲みたい」  背後から聞こえてきたロイクの声に、返事をする事もなくハーヴィーは再び冷蔵庫を開けた。封の切れていないボトルを取り出して放り投げる。  無言で飛んできたボトルを、ロイクは寝台に腰かけたまま空中でキャッチした。ボトルに張り付いたラベルを眺めて苦笑を漏らす。 「ありがとう…と言いたいところだけれど、あからさまな嫌がらせはどうかと思うよ?」  困ったように零すロイクへと歩み寄り、ハーヴィーはこれ見よがしに飲みかけのボトルを傾けた。 「ハーヴィー…」 「嫌がらせをされたくないのなら、今度から自分で動くことだな」 「酷いなぁ…」  落胆したように項垂れるロイクを見遣り、だがハーヴィーはその頤へと指をかけた。長い指がロイクの顎を持ちあげる。僅かに見開かれた碧い瞳を見下ろして、ハーヴィーは微かに口角をあげた。 「欲しければ強請ったらどうだ」 「君の手で僕の乾いたのどを潤して」  衒いもなく言い放ち、口を開けてみせるロイクに苦笑を漏らしながらもハーヴィーはボトルを口許へ運んでやった。 「ん…、っ」  ロイクが喉を鳴らすたびに、張り出した喉ぼとけが艶めかしく上下する。含み切れなかった液体が唇の端から零れ落ちるのも構わず、ロイクは寝台に両手をついたままハーヴィーに与えられるままに残りの炭酸水を飲み干した。 「っ…は、ぁ」  口許を離れたボトルに満足げに息を吐くロイクの口許を、ハーヴィーの親指が拭う。 「まるで手の掛かる子供だな、あなたは」 「子供におねだりはさせないだろう?」 「まあ、そうだな」  ロイクの言わんとする事をあっさりと肯定して、ハーヴィーは寝台へとその身を横たえた。幾分か硬いスプリングが背中を受け止める。  当然のようにロイクはハーヴィーを追った。甘えるように首筋へと顔を埋めるロイクの髪を、長い指が穏やかに撫でる。 「ハーヴィー…、君が欲しい…」  熱のこもったロイクの声音が耳朶を焦がす。思いのほか余裕のないその声に、ハーヴィーは小さく笑った。 「あなたらしくもないな」 「余裕がないと笑うかい?」 「いや。存外悪くない気分だ」 「お願いだからイエスと言って? 君が欲しくてたまらないんだ」  くぐもった声がハーヴィーを求めるたびに熱い吐息が首筋を撫でた。ふわりと石鹸の香りが鼻先を掠めていく。  こくりと、無意識にハーヴィーは喉を鳴らした。 「……ロイ…」 「僕に、君をちょうだい…?」  まるで許しを請うようなロイクの声に、ハーヴィーは小さく頷いた。瞬間、ロイクの腕がハーヴィーを強く抱き寄せる。僅かに浮きあがった腰を逞しい腕が軽々と支えた。 「っロイ…!」 「もう逃がさない。今から僕は…君を抱くよ」 「ずいぶん無粋な宣言だな……痛っ」  思わず反論すれば耳朶を噛まれる。次いで聞こえてきた声は、穏やかさの中にどこか揶揄いを含んでいるようだった。 「このままとけて君とひとつになれたなら、どれほど幸せだろう。ねぇハーヴィー?」 「あなたは…いつも馬鹿な事ばかり言うな…」  ゆるりと頭を振れば、頭をもたげたロイクの碧い瞳と視線がぶつかる。 「脱がせてもいい?」 「今さらそれを聞くのか?」 「一応、ね」  くすくすと笑い声を零すロイクの腕がハーヴィーの腰を抱いたまま持ちあがる。向かい合い、長い指がボタンにかかるのを見届けて、ハーヴィーもまたすぐ目の前にあるシャツのボタンへと指をかけた。  互いにシャツを脱がせ合うのをどこか気恥ずかしく感じていれば、ロイクが可笑しそうに笑った。 「こうしているとなんだか、若い頃に戻ったみたいな気持ちになるね」 「そんな可愛らしい時代があなたにもあったのか?」 「失礼だなぁ。僕にだって純真無垢だった時代があるんだよ」 「今はそうでない自覚があるようで何よりだ」  可愛くないと、そう言うロイクにハーヴィーは寝台の上へと再び押し倒された。勢いに弾む躰の上へと倒れ込んでくるロイクを受け止める。 「急に倒れてくるな。危ないだろう…」 「君がこうして受け止めてくれるじゃないか」  触れあった肌の熱が心地良い。嬉しそうにじゃれついてくる金色の頭を見下ろして、ハーヴィーは大きな背中へと腕を回した。 「ハーヴィー?」 「今夜は随分と”らしく”ない事ばかりだな。なにか思うところでもあるのか?」 「君に受け入れてもらえる幸せを噛み締めているだけだよ。正直、こんなにも誰かを手に入れたいと思ったことはないんだ。だから嬉しくてね」 「案外ロマンチストなんだな」 「そうだよ? だから今夜は君が赤面するくらい甘やかしてあげようと思ってる。覚悟しておくといい」  碧い瞳に胸元から見上げられてハーヴィーは首を振った。本気なのか冗談なのか分からない口調で言いながらも、いつもより熱いロイクの手と唇が肌を這う。 「こうやって、君の躰の隅々までを愛撫して、僕のものにしていくんだ」  さらりと金色の髪が肌を滑り、くすぐったさに眉根を寄せる。本当に全身を撫でまわす気でいるらしいロイクに溜息を吐いて、ハーヴィーは目蓋を閉じた。暗闇の中で、時たまに肌を吸い上げる微かな水音が耳に届く。  不意に持ちあげられた足に目蓋をあげれば、見せつけるようにつま先へと唇を寄せるロイクの姿がハーヴィーの視界に飛び込んだ。呆れたような声が思わず口から零れ落ちる。 「悪趣味な…」 「言ったろう? 君の躰は頭のてっぺんから足の先まで僕のものだよ」 「……好きにすればいい」  もとより抵抗する気などさらさらないハーヴィーはそう言って、ロイクへとその身を預けた。全身に触れるロイクは、快楽を与えるでもなくただただハーヴィーを確かめるかのようだった。 「面白いのか?」 「物足りない?」 「そうだな…」  言いながら上体を起こしたハーヴィーは、足元に蹲ったままのロイクを手招いた。 「どうせなら、私にも触れさせてくれないか」  寝台の上についた腕を強引に引き寄せれば、ロイクはあっさりと敷布の上に転がった。抵抗する気配もなく横たわるロイクの引き締まった腹筋へと唇を寄せる。くっきりと刻まれた筋肉の筋を舌先で辿りながら、ハーヴィーは投げ出されたままのロイクの手を引き寄せた。自身よりも大きな掌に口づける。 「っ、ハーヴィー…」  息を詰めるロイクに笑いを零し、ハーヴィーは大きな手をわざとらしく持ちあげた。高くあがった肘の内側へと唇を寄せる。碧い瞳を見つめたまま、関節の浅い窪みを舐る。 「あぁ…、こうして君にされるがままというのも悪くない」 「あなたが大人しくしているのなら、幾らでも快楽を与えてやるさ」 「僕を、抱きたい?」 「あなたが私に抱かれたいと言うのなら」  今さらロイクを抱きたいなどとは思いもしないハーヴィーである。そもそも抱きたいかなどと聞いてくるロイクにしても、本気である筈もない。 「ただの気まぐれだ。存分に愉しめ」
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