ゴーストとティータイム

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   ◇   ◆   ◇  寝返りを打った瞬間軋みをあげた全身に、ハーヴィーは呻きとともに顔を顰めた。未だすやすやと寝息をたてるロイクを恨めしそうに睨む。  そんなに長くはない付き合いの中でも、ロイクが狸寝入りをしている事くらいはハーヴィーにも分かっていた。なにせロイクは、常人では気づかないような些細な物音でさえも目を覚ます。神経質だとハーヴィーが言えば、ただ気を抜けない生活が長かっただけだとロイクは笑っていた。 「いつまで寝たふりをしているつもりだ」 「素敵な王子様が目覚めの口づけをしてくれるまで、かな」 「ならいつまででも寝ていろ」  付き合っていられないと、ハーヴィーは寝台を降りた。否、降りようとした。逞しい腕がハーヴィーを捕らえた事は言うまでもない。 「どうしてそう君は冷たいのかなぁ。恋人の可愛い我儘くらい聞いてくれてもいいじゃないか」 「恋人は否定しないが、あなたを可愛いと思ったことは一度としてない」  きっぱりと言い放てば腕を引き寄せられて、ハーヴィーはあっという間にロイクの腕に抱きすくめられた。低い声が耳元に囁く。 「いつもより冷たくあたるのは…照れ隠し?」 「自惚れるな。あなたがつまらない事ばかりを言うから呆れているだけだ」 「まあ、そんな君も僕は大好きだけどね」  ちゅっとわざとらしい音とたてて耳元へと口づけるロイクにハーヴィーは溜息を吐いた。これから部屋の荷物を移動しなければならないというのに、悠長にしている時間はないのだ。そうでなくとも休暇は一日しかないのである。 「いいから早く荷物をまとめてくれないか? 午後はゆっくりしたい」  引っ越しは、ハーヴィーの希望通り午後には終了した。未だ解けていない荷物はあるものの、日常生活に支障が出ない程度には片付けも済んだ。  部屋が変われど備え付けの簡素なテーブルセットは変わらない。キッチンに立つハーヴィーの後ろ姿を椅子の上から眺め、ロイクは部屋を見回した。 「君の部屋にして正解だったね。前の部屋より少し広い」 「そうか?」 「家具の配置のせいかな。開放的でとてもいい」 「せめて小さくてもいいから書斎が欲しかったんだが…」  ほのかな紅茶の香りとともに、ハーヴィーがロイクの向かいに腰を下ろす。 「我儘は言えんな」 「総支配人になれば、もう少し広い部屋に移れるよ」 「まだ先の事だ。それに、マネージャーは他にもいる」  さも簡単そうに言ってのけるロイクにハーヴィーは小さく首を振った。総支配人という職に就けるかどうかは、自信がない訳ではないが言うほど容易い事でもない。ましてハーヴィーは、三人のマネージャーの中では一番年下なのだ。『Queen of the Seas』に年功序列などという制度はないが、やはり貫禄という点においては他の二人に及ばない。 「君ほどの記憶力と行動力があれば、そう遠い話でもないと思うけれど」  言いながら、ロイクは他の二人のマネージャーを指折り数えて特徴を上げていった。やれ手抜きが巧いだの、やれ小さなミスが多いだの。ロイクの指摘点は同僚のハーヴィーでさえ言われてそういえばそうかと思う細かなことにまで及んでいた。  ロイクの人物評を黙って聞いていたハーヴィーが苦笑を漏らす。 「よくもまあ、他の部署だというのにそこまで知っているな」 「君と、君に関わることはなんでも知ってるよ? 僕に隠し事は通用しない」 「例えば?」  なんでも知っているというロイクにハーヴィーは面白そうに小首を傾げてみせる。なんでも知っているというのなら聞いてみたいと、そう思った。 「例えばそうだなぁ。君の同僚のロシア人、名前は確かアキムといったかな。彼はむかし、密かに君の失脚を狙って乗客リストをすり替えたことがある…とか? まあ、結果が彼の惨敗だったということは、君をみていれば調べるまでもないけどね」 「そんなに昔の事まで調べたのか?」 「言ったろう? 君の事なら僕はなんでも知ってるよ。それこそ君がこの船に乗る前の事も、ね」  普通であれば”異常”と思えるような事を平気で言ってのけるロイクにハーヴィーは呆れたように肩を竦めた。 「そこまで堂々と言われると、まるでそれが当たり前の事のように聞こえてしまうから困るな」 「僕にとっては当たり前の事だからね。まあ、君は嫌がるだろうけれど」 「もう諦めた。あなたに常識が通用するとも思ってない」 「僕は非常識?」 「自覚がないのなら意識を改めるべきだな」  咎めるふうでもなくそう言ってティーカップを口に運ぶハーヴィーを、ロイクが些か憮然とした顔で見つめていた。 「だがまあ、だからといってあなたとこうなった事を私は後悔してはいない」 「後悔したくなる時がくるかもしれないよ?」 「その時はその時だろうな。不確定な要素に怯えていても無駄なだけだ」  腹は括っているのだと、ハーヴィーはそう告げた。マフィアなどという人種を相手に常識を解いたところで意味がない。ましてまっとうな道に戻そうなどという馬鹿げた方向に行くような思考もハーヴィーは持ち合わせていなかった。 「少なくとも、あなたを選んだのは私だ。もしあなたと離れたいとそう思った時は、潔くあなたに殺される覚悟くらいは出来ているつもりだ」 「まさか君の口からそんなにも情熱的な愛の告白が聞けるとは思わなかったよ」 「思いのほか小心者の恋人には、これくらいでちょうど良いだろう?」 「ふふっ。君が思いのほか男らしくて惚れ直してしまいそうだよ」  うっとりと微笑みながら手を重ね、ロイクは椅子ごとハーヴィーの近くへと移動した。 「ねえハーヴィー」  ことのほか真面目な声で名前を呼ばれ、ハーヴィーは口許へ運ぼうとしたカップをとめてロイクへと視線を向けた。 「僕はきっと、そんなに長い間この船にはいられないと思う。そしたら、君はどうしたい?」  俯きがちに呟かれた言葉に、正直ハーヴィーは驚きを隠せなかった。ロイクの口からどうしたいかなどと真面目に聞かれたのは初めてではないのかと。 「私の答えは、どうせ分かっているんだろう?」 「そうだね。僕はきっと、君の答えを知っているよ」  束の間、沈黙がふたりを包み込む。かちゃりと、陶器の触れ合う音がハーヴィーの手元で微かに響いた。 「それでも、あなたは私に選ばせてくれると?」 「…君は意地が悪いね」 「そうかもしれない。それに、私はあなたを裏切る」 「え?」  らしくもなく怪訝な色を浮かべるロイクに、ハーヴィーは小さく笑った。 「あなたのそんな顔を見るのは初めてだな」 「それよりもハーヴィー…」 「あなたが私の意志を尊重してくれようとしているのは素直に嬉しい。それで浮かない顔をしているあなたを見ているのも悪くはない。だが、せっかくの決心を裏切ってしまって申し訳ないが、私はあなたが望むなら一緒に船を降りてもいいと思っている」  黙りこくってしまったロイクはきっと、ハーヴィーを誤解しているのだろうと思う。きっとロイクは、ハーヴィーが『Queen of the Seas』を我が家だとそう言ったことを覚えているに違いないだろうと。  だがしかし、ロイクの仕事はホテルマネージャーであってクルーではない。この船に愛着はあるが、船上でないと出来ない仕事ではないのだ。 「フランスにも、ホテルはあるだろう? それとも、私はこの船でないと総支配人にはなれないか?」 「っ…ハーヴィー…」 「それで? あなたの希望は? ロイ」  わざとらしく問いかけてやれば、ロイクは困ったような笑みを浮かべた。 「僕は…我儘なんだよ、ハーヴィー」 「知っている」 「その僕が…せっかく我慢してあげようと思ったのに…」 「そうだな」 「酷い裏切り者だよ君は…」 「すまなかった」  言い募るロイクの言葉を聞きながら、ハーヴィーはされるがまま逞しい腕の中に捕らわれた。 「僕と…フランスに来て欲しい…」  胸の中で聞いた絞り出すような声は、まるでロイクの全身から聞こえてくるようだった。 「喜んで」  穏やかに応えるハーヴィーの唇を、ロイクのそれが塞いだ。  幾度も名前を呼びながら吐息を貪るロイクの躰を抱き締め返す。引っ越しで半日になってしまった休暇をゆっくり過ごすという計画をハーヴィーはあっさりと諦めた。  これまでひとりで過ごしてきた部屋だというのに、ロイクが居ても違和感を感じない。ずいぶん慣れてしまったものだと内心で苦笑を浮かべ、ハーヴィーは静かに目を閉じた。    ◇   ◆   ◇  一年後。サウサンプトンの港を出港する『Queen of the Seas』の優美な姿をハーヴィーとロイクは並んで見送っていた。幾人かのクルーがデッキから手を振る姿にふたりで応えているうちに、あっという間に船は遠ざかっていった。 「行ってしまったね」 「ああ」 「寂しいかい?」 「寂しくはないが、慣れないな」  船上での生活が長かっただけに、足元の地面が慣れないとハーヴィーは笑った。 「夢を見ているようだよ」 「こんな昼日中に何を言ってる」 「あの日君は船を降りると言ってくれたけれど、僕は正直信じられなかったんだ」  ぽつりと零されたロイクの声に、ハーヴィーは僅かに高い位置にある恋人の顔を見上げた。 「君の気がいつ変わってしまうかも知れないと、僕はずっと心配してた」 「安心できただろう?」 「まさか。いつ君に嫌われてしまわないかと怯えてるのに」 「私が出会った頃のあなたが聞いたら卒倒するな」 「きっと僕は信じない」  他人事のようにそう言って、笑いながらロイクがハーヴィーの肩を引き寄せる。 「落ち着いたら家を買おうと思うんだけれど、住みたい場所はある?」 「ニースだったか」 「そう。君が気に入ってくれると良いけれど」 「それにしても気が早い」  まだフランスにも着いていないとハーヴィーが言えば、ロイクが照れたように笑う。 「それだけ、君との新しい生活が楽しみなんだよ」 「私は、職を探さないとな」 「君ならどこでも働けると思うけれど、出来ればうちのホテルに来て欲しい。優秀な人材をみすみすライバルに渡したくないからね」 「どうだろうな」 「君は本当に意地が悪い」  可笑しそうに笑うハーヴィーにロイクは渋い顔をするしかなかった。ハーヴィーの新たな職探しについて、ロイクは一切関わらないと約束させられている。  どこで働くのかはもちろん、裏から手を回そうものなら指輪を返すと脅されてしまってはロイクに勝ち目などなかった。 「まぁ、ゆっくり決めるさ」 「なんなら僕が養ってもいいよ?」 「そうだな。老後は心配しないでおく」  さらりと宣ったハーヴィーがその数年後、あるホテルの総支配人を経て、組織のホテル部門を取り仕切る事になろうとは、本人どころかロイクすらこの時予想もしていなかった。 END
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