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ゴーストとティータイム
海上の高級ホテルとの異名を持つ大型客船『Queen of the Seas(クイーン・オブ・ザ・シーズ)』。その要とも言えるホテル部門を執り仕切るのは、三人の敏腕マネージャーと総支配人だ。
中でも三十三才という異例の若さでマネージャーへの階段を駆け上がって来た男は、その名をハーヴィー・エドワーズ《Harvey Edwards》と言う。
些か生真面目に見える彫りの深い顔立ちと、百八十七センチのすらりとした長身に紳士然とした佇まい。読書と紅茶を好み、ゲストの如何なる要望にも即座に対応する。完璧な英国英語を操る彼は、生粋の英国人である。
これは、そんな若き敏腕マネージャーの多忙な私生活をクローズアップしたドキュメンタリーである。…かもしれない。
【ゴーストとティータイム】
ハーヴィー・エドワーズが見覚えのない東洋人の男を船内で発見したのは、寄港地のバルセロナを出港してすぐの事だった。
黒く艶やかな髪と澄んだ黒い瞳。東洋人にしてはしっかりとした躰つき。一度見れば絶対に忘れはしないはずの容貌に見覚えがないというのは、ホテルマネージャーとして看過できない事態でもあった。
――密航者にしては堂々とし過ぎているが…。
目の前に関係者が居ようとも、隠れるそぶりもなく悠々と歩いてくる男に否が応にも視線を吸い寄せられる。それとも、大型の客船のクルーであれば知らない顔が居たとしても不思議はないとでも思っているのだろうか。
実際、働く部署が違えば顔を合わせた事もないというクルーは少なくない。だが、この男は運が悪いと言えた。男がこの船のゲストでないという事だけはハーヴィー自身のスキルに誓って言える。
ハーヴィーは、この船のクルー全員の顔と名前を覚えている。それどころか千人を超えるゲストの顔と名前、家族構成から趣味や嗜好に至るまで、すべてのデータを頭に叩き込んでいた。
まして男がいるのは人目につかないクルー専用の通路である。疑うなという方が無理な話だった。
「失礼ですがお客様」
『ああ?』
すれ違う直前、立ち止まって声を掛ければ低く恫喝にも聞こえる声が返事を寄越す。それだけで、ハーヴィーは目の前のこの男が日本人であると理解できた。
「失礼ですがお客様、こちらはクルー専用の通路となっております。ゲストIDを拝見させていただいても?」
ゆっくりと言い直せば男の視線が胸元へと向けられるのが分かる。肩書の入ったネームプレートを一瞥し、男は口を開いた。
「ちょうどいい。あんたこの船に詳しいだろ」
IDを提示するそぶりも見せず、あまりにも堂々とした態度にほんの僅かに気を取られたハーヴィーは、一瞬にして男の腕に捕らわれていた。
あっという間に背後へと回った男が、クセのある英語で耳元に囁く。
「悪ぃがロイクって野郎の部屋に案内してもらおうか。俺の身分は後でゆっくり説明してやるよ。…この船のキャプテンがな」
「な…?」
「ホテルマネージャーってんなら、マスターキーくらい持ってんだろ」
言うが早いか制服のポケットをまさぐられ、ハーヴィーが慌てた事は言うまでもない。こんな何者かもわからぬ男にマスターキーを奪われるわけにはいかなかった。
だがしかし男の腕の力は強く、ハーヴィーの力ではどうにも現状を打開することは適いそうにない。そもそも、男の言っている意味が理解できない。
「少し、待ってくれ。あなたはいったい…」
「俺ぁただの日本人だよ。この船のキャプテンの知り合いで、辰巳ってんだ」
言いながら、ポケットから抜き出したカードキーを確認した男はあっさりとキーを戻した。
辰巳という男が抜き出したのは、間違いなくこの船のマスターキーである。なのに何故なにも言わずに戻したのかがハーヴィーには理解できなかった。
ともあれ、奪い去られるよりはマシといえる。
「ミスター、タツミ…。何故ロイクの部屋に?」
「あの野郎がフレッドを監禁してっからさ。あんた見たところフレッドとは職種が違うようだから知らねぇだろうが、今さっきこの船を出港させたのはフレッドじゃねぇ。なんなら確かめても良いぜ?」
自信満々に言ってのける日本人の言葉を、ハーヴィーは信じられないものを見るような思いで聞いている事しか出来なかった。
男の言う通り、キャプテンであるフレデリック《Frederic》の所在が掴めないという連絡はハーヴィーの元へも入っている。ハーヴィーとしては、友人でもあるフレデリックの行方が知れるのであればこの男のいう事を聞いてやるだけの価値はあった。
「わかった、あなたの言葉を信じよう…。だが、腕を放してくれないか」
「それは出来ねぇな。あんたに騒がれると面倒なんだよ」
このままロイクの部屋に案内しろという恫喝とともに背後から押し出されて、ハーヴィーは足を踏み出さざるを得なかった。
港を出たばかりの船内。クルー専用の通路に人影は皆無だった。クルーはみなゲストの出迎えや操船に忙しい時間である。
不運にも、誰に見咎められることもなくハーヴィーはロイクの部屋の扉の前へと辿り着いた。
「開けろ」
「もし、あなたの言ったことが事実でなかった場合はセキュリティーに連絡させてもらう」
「ああいいぜ?」
ようやく離された腕をさすりがなら振り向けば、揺らぎもない黒い瞳がハーヴィーを映し出した。不思議と、この男は信用できる気がしてくる。それにこの辰巳という男は、制服をまさぐっておきながらマスターキーを奪おうともしなかった。
やっている事はめちゃくちゃだが、何故だか憎めない。
「どうしてキーを奪わなかった?」
「ああ? そんなもん失くしちゃああんたのクビが飛んじまうだろぅが。俺ぁロイクの野郎に用事があるんであって、あんたにゃ恨みなんぞねぇよ」
「……そうか」
目的以外に興味はないと、はっきりと伝わってくる言葉が小気味よく感じる。どこまでも真っ直ぐな男なのだろうと、会ったばかりのハーヴィーでさえも惹き込まれてしまう。
――不思議な男だ。
こんな出会い方をしなければ、良い友人になれただろうと、そう思う。
「いいからさっさと鍵を開けろ」
「あ、ああ…」
促され、拒む事さえも忘れてハーヴィーは目の前のドアのカギを開けた。辰巳という男の言葉が本当であれば、中には友人であり、キャプテンでもあるフレデリックが居るはずである。
まさか同じ船で働くロイクがキャプテンを監禁するなど、信じたくはない。だが、フレデリックが不在である事も事実だった。
得てしてドアを開けたハーヴィーは、部屋にフレデリックの姿を発見することとなった。しかも、全裸で。
「な…っ!?」
思わず、奇妙な声が零れ落ちる。
ロイクという男がどんな性癖を持っているのかも、フレデリックにそちらの趣味があると知っていても、まさか職務をそっちのけで淫行に耽っていたなど到底許される事ではない。
だがしかし、二の句が継げずにいるハーヴィーの横を、辰巳という日本人が擦り抜けていった。
『あんたの望みを叶えてやるよ、ロイク。俺の目の前でそいつ抱かしてやろうじゃねぇか。そん代わり、今後そいつに指一本触れんじゃねぇ。あんたへの借りは、これでチャラのはずだからな』
『辰巳…どうして…』
『あぁん? てめぇの魂胆なんぞ見え透いてんだよ阿呆が。だいたいてめぇ、そのまま抱かれたって弱み作るだけだろうが。ンな事もわかんねぇほど馬鹿みてぇに熱くなってんじゃねぇよ、このタコ』
目の前で交わされる日本語の遣り取りを、ハーヴィーは聞き取ることが出来た。が、内容を理解するには少々時間が必要である。
フレデリックの額を指で弾き飛ばした辰巳がくるりと振り返る。
「悪かったなあんた。ちっと手荒な真似しちまったが、もう帰っていいぞ」
あっさりと告げられた言葉に何故か怒りが込み上げる。
「そんな謝罪が通用するとでも思っているのか? それに、いったいこの状況はなんだ。きちんと説明してもらうぞフレッド! それにロイク、あなたもだ。キャプテンを監禁するなんて馬鹿げた真似を!」
出港前の大事な時に何をしているのかと、ハーヴィーはロイクへと詰め寄った。
「誤解だよ、ハーヴィー。僕はフレッドを監禁なんてしてない」
両手をあげてみせてはいるものの、ロイクの言葉を信じる気にはなれなかった。なにせこのロイクという男に、ハーヴィーは一度無理やり犯されそうになった経験がある。
「ならどうしてフレッドがあんな恰好をしている? しかもそこの日本人の言葉はどう説明するというんだ」
お前の言葉など信じられるかと、そんな意思を込めてロイクを問い詰めれば、目の前で微かに唇が動く。
『まったく、とんだ邪魔が入ってしまったようだ…』
フランス語で呟かれたその言葉が、ロイクが自ら罪を認めたに他ならなかった。
「やはりあなたは良くない事を考えていたようだなロイク」
反省の色もないロイクの態度には呆れ果てる。だが、辰巳という男のいう事が正しかったのだとすれば、ロイクを見過ごすわけにはいかなかった。
身柄を確保しようとハーヴィーが足を踏み出した時だった。ゆっくりとロイクの腕が上がったかと思えば、一瞬にして目の前が白い光に包まれる。
――え…?
何が起こったのか分からない。
ハーヴィーは、あっという間に音も色もない世界へと落ちていった。
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