それぞれの門出

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 陽茉莉が産まれてから、守屋家の中心は陽茉莉になった。お義父さんも仕事帰りが早くなり、あまねくんは予定通り有給を使って毎日一緒にいてくれた。  有言実行は得意なのか、沐浴もオムツ交換も率先してやってくれるあまねくん。こんなに毎日やってもらったら私の方がやり方を忘れてしまいそうだ。  授乳以外の時間に泣いた時には、あまねくんはすぐに反応して抱っこしてくれるし、私よりも寝不足なんじゃないかと思えた。 「仕事に戻ったらとてもあんなふうにできないから今の内にやってもらったら」  ダリアさんはそう言って綺麗に笑う。  世の中には妊娠、出産は病気じゃないんだからと普段通りの生活を強いられる人も多いと聞く。しかし、私の環境はそれとは無縁で食事はダリアさんが作ってくれるし、陽茉莉はあまねくんが見てくれるしで至れり尽くせりの毎日である。  申し訳なくなって手を出そうとすれば、とりあえず落ち着くまではいいからなんて言われてしまう。  ありがたいのだけれど、これでいいのかなぁと不安にもなる。  なんとなく授乳も慣れてきた気はするのだけれど、とにかく痛い。乳房も張って痛いし、乳首も痛い。ダリアさんは律くんを産んだ時に乳腺炎になって大変だったそうだ。  私もネットで調べてあれこれと予防に努めるのが大変だ。けれど、こんなふうに予防したり自分のケアに時間が使えるのはやはり愛しの旦那様と守屋家の皆さんのお陰だと思う。 「まどかさん、出生届出さなきゃだっけ」  退院してから5日目、あまねくんはそう言った。陽茉莉が産まれてから10日経つ。私も一緒に役所に行きたいと言ったものだから、ついつい日が経ってしまった。  14日以内に出さなければならない出生届。私はぼやっとする頭であまねくんに連れてってもらおうかなと腰を上げる。 「名前も書いてこなきゃだもんね」 「うん。ねぇ、まどかさん……。俺、ちょっと考えたんだけどさ、陽茉莉の字変えない?」  あまねくんが言いづらそうにそんなことを言うから、私は驚いて彼の方を向いた。 「え? 今更?」 「いや、実はずっと思っててさ……。夢で見たのは確かにあの字だったからこのままでいいって思ってたんだけど……」 「何かあるの……?」 「陽茉莉の陽の字さ、陽菜ちゃんと同じ字なんだよね……」 「……」  あまねくんの言葉に、今度は硬直した。そ、そうか……。そんなことまで考えてなかった。明るく育つといいなぁなんて思って陽を選んだ。けれど、陽菜ちゃんのように変にポジティブに育ったらそれはそれで……。 「ねぇ、ちょっと縁起悪いと思わない? 俺も悩みに悩んだんだよ。このままの方がいいのかどうか……」 「う、うん。確かに……。夢の中で待っててって言ってくれたのはこの陽茉莉なんだよね?」 「そうだね。でもね、夢は夢だし……字を変えるだけならいいかなぁって……」 「うん。そっか……そっかぁ……」  私は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。 「まどかさんが、明るく元気な子に願いを込めてつけてくれたのは凄く素敵だと思うんだ。でも、俺はまどかさんみたいに綺麗で気品のある子にも育ってほしいって思うんだ。清楚な意味も込めて茉莉も入れたし……だから、まどかさんさえ良ければ楊貴妃の妃はどうかなって」 「楊貴妃……? 私、そんなに品格とかないよ。自分の子供に(きさき)をつけるって名前負けしたりしない……?」  とてもいい案だとは思うけれど三大美女と呼ばれる楊貴妃から名前を取るなんて……将来いじめられたりしないかなと不安になる。 「何言ってんの、まどかさん。俺とまどかさんとの子供だよ? 名前負けなんて無縁に決まってるじゃん」  珍しく強気なあまねくん。自分の容姿が嫌いなくせに、自信満々にそう言うあまねくん。よっぽど陽菜ちゃんと同じ字を使うの嫌なんだろうな……。  たしかに、何かの拍子で陽茉莉の字に自分の名前が入っていることを知った陽菜ちゃんが、自分を意識してくれたのかもしれないなんて勝手に勘違いする可能性もなくはない。そういう突拍子もない考え方をするような子だ。  名前は一生ものだし、私とあまねくんの手から離れた後もその名前を背負って生きていくのだ。それを考えたらやはりどうにも縁起の悪い字に見えてならない。  忘れてたけど、私今年のおみくじ凶だったし。ここは大吉のあまねくんの意見を尊重した方がいい気がしてきた。 「……何だかんだ全部の字を私一人で決めて、あまねくんとは答え合わせをしただけだから、あまねくんがちゃんと意味まで考えてそうしたいって言うならそれもいいかなって思うよ」 「本当!? じゃあ、妃茉莉に変更でいい?」 「……うん。どうかな……他の人の意見も聞く?」 「……聞く?」  あまねくんと私は顔を突き付けて、首を傾げた。守屋家全員が揃ったところで、経緯を話した。  家族全員苦虫を噛み潰したような顔をしていた。満場一致で改名が決まり、私とあまねくんは妃茉莉で出生届を出しに行くのだった。
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