プロローグ

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プロローグ

「今日も一日、頑張ってね」  女性がいつもと同じように、玄関で靴を履いている少年とそれを待っている男性に声をかける。少年の背にはランドセル、男性の手には黒いビジネス鞄があり、二人とも通学・通勤することが窺えた。 「はーい」 「うん。ありがとう」  声をかけられた二人がそれぞれ返事をする。そして、自然な流れで男性が女性の頬にそっとキスをした。 「いつも思っていたんだけどさ、息子の目の前でそういうことするのってどうなの?」  靴を履き終えた少年が呆れた様子で二人を見上げる。 「別にいいじゃない。キスは外国じゃあ挨拶よ? 恥ずかしがることなんてないわ」 「ここ、日本だし」  恥ずかしがる様子もなく言う女性に、少年は苦笑いを見せた。男性はそんな少年に微笑みかけると、彼の頭をポンポンと叩く。 「お前も、いつか分かるよ」  少年は男性の手を払いのけると、「ふん」と玄関のドアを開けた。朝の光が家の中に入ってくる。その眩しさに、三人は目を細めた。 「今日はよく晴れているね」 「そうだな。もう梅雨明けだっけ?」 「いいえ。まだ、梅雨は明けていないはず。天気が不安定だし、一応折りたたみ傘持って行った方がいいわ」  女性の言葉に、少年は「置き傘があるから大丈夫」と元気よく玄関から一歩外に出た。男性はその様子に微笑みながら、女性に「それじゃあ、そろそろ行くよ」と軽く手を上げる。 「気をつけて行ってらっしゃい」  女性のその声に少年と男性は頷くと、「行ってきます」と玄関の扉を閉めた。女性は二人の足音が遠くなるのを確認すると、忘れないうちに玄関の鍵を閉める。いくらここが郊外の田舎だとしても、用心するに越したことはない。 「さて、掃除でもしますか」  女性はそう呟くと、リビングへと向かった。リビングは格別汚いわけではなかったが、おもちゃやら本やらで、ごたごたとしている。  ――まずは、この床に散らかった物を片付けないと。  女性はそうリビングに置かれた物の整理を始めた。  ――これはあの子の、これはあの人の……。  手際よく片付けていたが、その手は数秒後に鳴ったインターフォンによって止められる。女性は時計を見て、眉を顰めた。  ――こんな朝早くに客が来るなんて、珍しい。  不審な来客にインターフォンのカメラを確認しようと立ち上がるも、黒い折り畳み傘が目に入ってその動きを止める。それは紛れもなく、先ほど家を出て行った男性のものだった。  ――あれだけ言ったのに、あの人ったら傘を忘れたんだわ。  女性はそう微笑むと、傘を持って立ち上がる。脳裏に家を出て行ったばかりの二人がよぎった。あの二人は基本、自宅の鍵を持ち歩かない。そのため、帰宅時にはインターフォンを鳴らして女性が鍵を開けることになっていた。それは忘れ物を取りにきたときも同様である。  女性は来訪者が男性――すなわち自分の夫であることを疑わず、インターフォンのカメラを確認することなく玄関の扉を開けた。 「もう、傘、忘れたんで――」  女性の言葉は最後まで音にならなかった。胸に鈍い痛みが走って、ふと自分の胸に視線を向けるとナイフが刺さっている。その刺入部からどくどくと血が流れ出ていて、恐ろしく感じた。  女性はもうろうとする意識の中、家の中へと逃げようと後ずさる。目の前の自分を刺した人間の顔など、見る余裕もなかった。 「何をやっているんだ!?」  不意に愛する人の声が聞こえた気がしたが、その声に応えられるほどの気力はもう残っていない。彼女はその場に倒れ、意識を失った。
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