独裁者

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 銃を下げた白肌の兵士が見回る街を相棒と二人で縦断する。所々崩れたままの石造りの街並の中、霞むような強い陽射しについつい目元が険しくなる。  おびえたような顔をした浅黒い肌の少年たちは隠れるように走って行った。スカーフを被った女たちは陰を縫うように通り過ぎた。髭を蓄えた男たちは崩壁の前でたむろして、兵士たちを胡乱なまなざしで追っていた。  ――その男は権力の椅子にある間、血の雨を降らせたという。 「我らアイシ派が優遇されていたのは事実です。いいえ、政府は公正でした」  迎え入れられた街で一番大きな教会の堂は、広いだけでやたらと質素な作りをしていた。像の類が置かれていないのは宗教上の理由と思い至ったが、装飾も壁や天井を彩る色すら見られなかった。  私を見てわずかに目を見開いた老神父は、何事もなかったかのように私たちを奧へと誘う。  不揃いの椅子に突けば音を立てる机。奧には、講堂としては不似合いな濃い色の大きな板がある。石の壁にはいくつも窓が取られており、午後の陽射しが静かに漂う埃をまるで止まった時を悼むとでも言うように浮かび上がらせていた。 「我々は信徒の寄付で活動しています。教会運営も、慈善事業も、何もかもを」  神父の声は淡々としていた。善と愛と感謝にあふれる一神教の牧師とも、無我の境地を覗き込んだ多神教の僧侶とも違っていた。 「優遇されていた、とは」 「多額の寄付があったのです。国家予算に匹敵する」  大国の皆さんからすればタカが知れていますがね、ほんの少しの自嘲を含み神父は続けた。 「というと」  時折瞬くフラッシュを気にかけることもなく、神父はふっと目を細める。どこか遠くを見るように。 「彼はアイシ派でした」  ――横領とも、独裁の結果だとも噂された。証拠は十数年経た今となっても上がってはいない。  立ち並ぶ屋台はやたらと香ばしい匂いを立てていた。共通語の品書きに兵士が幾人も並んでいる。住人と思しき人々は場所すら忌避するように道端を行く。  ふと音も立てずに少年が駈け抜けたかと思えば、怒声と悲鳴が交錯した。誰も彼もが足を止め、そして何事もなかったかのように歩き出す。 「スリ、か」  相棒はぼそりとつぶやき、仕事道具を彼らへ向ける。  少年は瓦礫の前で兵士達につるし上げられ、仲間らしい子供たちは我先にと散っていった。女たちは避けるように角を曲がり、陰に溜まる男たちばかりが少年の行く末をただ見ている。 「彼はどうなるのかしら」  戦場専門の相棒は、言葉の前に溜息をつく。 「二、三発殴って放免だろ」 「それでは彼らは懲りないわ」 「更正施設なんてここにはないんだ」  言葉に混じりささやかな音が降り続く。相棒はしきりとシャッターを切っていた。  ――開祖から連なる血統を維持するニズン派の彼らは迫害されたと証言した。虐殺があり、信教・信派に自由はなく、居住も仕事も制限されたと。  神父は書棚から零れた本へ目を留めた。色あせて落書きされて半分焼け焦げた壊れかけの本だった。静かに近寄りそっと手に取り、愛おしげに背を何度もなでた。開祖の言葉と記録を重んじるアイシ派らしいと思うのは、単なる思い込みだろうか。 「慈善事業には教育も含まれました」  もとは多彩な印刷だったのだろうその表紙は子供向けの図柄に見えた。同じような大きさで厚さもよく似た本の横へ立てかけ、柔らかい笑みでこちらを向く。 「読み書きや足し引き、歴史や自然を教えていました。子供たちは宗派を超えて学び遊び育ちました」  そっと触れる壁には幾本もの傷が付けられていた。生々しく確固とした銃痕とは違い、深さも長さも異なる幾本もの水平な傷だった。傷の横になにやら書かれたものもあった。文字も言葉もまちまちのたどたどしい字で。ナヒヤーン、マクトゥーム、アムル、マリア、ニコル。幾人もの名前だった。 「商人の子供も、農家の子供も、職人の子供も、役人の子供もいました。どんな子供も学ぶ権利を持っていて、我々には教える義務がありました」  ――教育制度も、就労支援もその国には存在しなかった。政府は搾取のみを行い、民はただ蒙昧に働き続けた。  街を抜けると一気に視界が広がった。遠く国境を定めた山脈が青い空気の向こう側で長々と横たわり、山脈へ続く平原は、ところどころに木が群れ車両が錆びるほか、多くを草と土とに占められていた。一帯が農場だった証だろうか。着弾跡のすぐ横で麦穂が青々しく風に揺れていた。  髑髏マークが道に沿って立てられていた。相棒を見やれば戻ろうとでも言う様にあごで街を示している。首を振って返したならやれやれと溜息と共に肩をすくめた。  すでに処理された後だろうか、もしくは処理できてしまった区画だろうか。街に程近い道から少しばかり入った場所で果樹に向かう老爺に目を留めた。声を掛ければ老爺は億劫そうに振り返る。億劫そうな理由は明白だった。足が一本欠けていた。  老爺へと歩み寄る。相棒は少しばかり慎重にゆっくり後をついてきた。 「樹の世話は大変なのではないですか?」 「ワシは果物を育てよと神にいわれて農家に生まれた。足が欠けても手が欠けても、動ける限り世話をする」  休憩は終わりだと老爺は再び果樹に向かう。シャッター音を響かせながら、今度こそ、街へと続く小道へ戻る。  ――二十余年の在位中の死刑執行数は二五五六に及ぶ。その内外国人は二十人だった。  どう思うか。問いかけた私の言葉に、神父は眉一つ動かさなかった。 「数について私が言うべき言葉はありません。国府にある公式な記録がすべてです」  堂の奥の小さな部屋で特産だという茶が香ばしい匂いを立てた。  味が落ちたな。相棒の呟きに神父は何も言わなかった。 「ただ一つ言うとするならば、国民として、アイシ派として、彼らはあってはならない存在でした」  スクラップブックに並ぶ色あせた紙面は冷静に罪を並べていた。非聖別食品の持ち込み。無垢なる少女への食肉進言。気付いた母娘の自殺。  旅行者はそれを嗤ったという。だから処罰が下された。    ――国有企業による市場の占有。外国企業を排斥し、近代技術を拒否し続ける、極端な国粋主義。  解放されてからのこの国の経済は、急発展の一言に尽きた。見たこともない便利なもの、味わったこともない数多の食品、映画、芸能、娯楽の数々。外国人向けのホテルもまた、そんな狂瀾の中で生まれたものの一つだった。  鍵を一つだけ受け取った。従業員は鍵を見て、表情を消したまま私たちを見比べた。外国人らしくない私の容姿と行動が、奇異に映ったためだろう。  部屋へと踵を返したその時、ロビーの壮大なシャンデリアは唐突に明かりを落とした。程なく、ランタンの細やかな光が辺りを照らした。 「慣れているんですね」 「日に一度や二度は停電するんです」  警備員の横を過ぎ、二重ロックの部屋に入る。こんなものか、相棒は荷物と一緒に溜息をこぼした。 「それでもマシな方らしいけど」  私は座って手帳を開く。見たことを感じたことを、一つ一つ書き留める。来るまでのこと、来てからの想い。 「なんでここだったんだ」 「専門じゃないもの。最前線になんてとても行けない。程々に安全で、程々に歪んでいる」  支援軍ありきの社会、習慣など無視した兵士。適応する子供たち、しきれない大人たち。私(ジャーナリスト)が見せたい現実がある。 「なんで、ここ、だったんだ」  見透かすようなガラスの目が、丸く私を覗き込む。 「会いたい人がいるの」  言葉は、溜息のようだった。 「前大統領の聖職位時代の盟友よ」  手帳を捲る。最後のページに私のものではない筆跡で一つの名前が書かれていた。  ――かの男が地位に就き、国外脱出を図るニズン派が急増したのもまた、事実。 「そして、ニズン派の長たる彼らを野放しにすることは、彼には出来なかったのです」  淡々と事実を語る中で彼と言った響きだけほんのわずかやさしく聞こえた。 「前々政権は拡大政策を取っていたそうですね」 「その通りです」  ニズン派の重鎮は、成長する世界経済に取り残されることを恐れた。外国企業の言われるままに地下を探り、輸出食材ばかりを育てた。 「彼は、聖職位を退く決意を固めたそのとき、ニズン派にも顔が効く自分だから、罪をかぶった自分だから。と、私へ言い残しました」  そこから後は、現代史として記録される。 「ところで、どうして私が彼と親しかったことをご存知なのでしょう」  ただ静かでまっすぐな目を、私は正面から受け止める。 「母はアイシ派でしたが、最初期の脱出者でした」  私は用意していた言葉を告げる。  神父はゆっくり瞬いた。頷くように、促すように。  だから私は、続きのために口を開く。 「私に父は居りません。特定の神も、持ちません」  神父の目に驚きはなかった。ただ少し。空気がやわらかくなった気がした。  相棒がカメラを置くささやかな音が部屋に響いた。 「お母様のお名前を、うかがっても?」 「母の名は、」  神父が笑む。 「あなたは、父親似なのですね」  憂いのないその笑顔は、母に良く似ていた。  ――政権取得後わずか数年で、いくつもの国との交友が絶たれた。  ――外国企業を排斥し、鎖国政策に舵を切った。二五五六人もの命を奪い、自らもまた凶弾に倒れた。  私からも一つ聞いて良いでしょうか。神父は口を開く。 「貴方は、彼を悪だと思いますか?」  ――独裁者。誰もが彼をそう呼んだ。 「わたしは、」  今なら判る。ジャーナリストとして混乱のただ中にあるこの国を選んだ。自らのルーツを辿ってみたかったのは嘘じゃない。  けれど。ただ。  私は、この国を見たかったのだ。
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