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飼い主である西野さんの「お手」の声に応えて、右の前足を持ち上げようとしたパグの体は、そのまま顔から床に倒れ伏した。顔の肉の皺が寄って、愛らしさは三割増し。西野さんは慌てて助け起こすが、パグはといえば、特に動じる様子もない。ただ、「お手」の対価を求めて、期待を込めた視線を向けている。
「左前足の支えが利かないんですね。なるほど……。一度、アクティブ・レベル戻しますね。普段はいくつにしてますか」
「ええと、四か五ぐらいかな」
「じゃあ、四にしておきます」
「小田先生……レアンドロはなおるんですか」伏し目がちにこちらを窺いながら、西野さんがパグの体を抱きしめた。俺はパグの後ろにしゃがみ込み、右耳の後ろのノブを探り当てる。ゆっくりとノブを回すと、大人しく抱かれていたパグの目に光が差し、西野さんの顔を舐め始めた。髭の剃り跡も見当たらない肌理の細かい肌が、パグの唾液にまみれていく。
と言っても、このパグの口から分泌されている液体には、本物の唾液中に存在するはずの何百種という細菌がほとんどいない。非通信型完全自律擬生体ペット――商品名パペットは、犬や猫の肉体を模しているだけで、口内フローラまでは形成されていない。
四年前にリリースされたパペットは、半年前に発表されたモデルで早くも第三世代に達し、第四世代の噂も絶えない。世間の注目度は、スマホやPCのモデルチェンジの比ではない。
アクティブ・ノブは第二世代から実装された機能で、レベルを絞れば大人しくなり、上げればハイテンションになる。飼い主が疲れている時には低反応に、一緒に遊びたい時には高反応に。亡くしたペットの生体ログをインポートして、より賢く愛らしく生まれ変わったペットに再会――第二世代の発表時の売り文句の一つだ。
「パペットの動作の不具合は、治る治らない、というものではないんですよ」西野さんの細い膝に伸し掛かるパグの背中の皮をつまみながら、皮膚感覚と反応の同期を確認していく。「パペットの肉体は、もちろんレアンドロくん自身のものではありません。ですが、パペットの動作を制御しているのは、生前の彼の体が蓄積したデータです。だから、不具合が出るのは当然なんです。人間でも、怪我や入院の後にはリハビリが必要でしょう」
「はあ……。見た目が生きていた時のレアンドロと変わらないので、今一つ実感が湧かないんですよね」
そう言ってくる飼い主は多い。彼らにとってパペットは、死んだペットの代替物などではない。ペットを喪った経験そのものが、どこかへ消え去ってしまっている。
こういう話を聞くたびに、胸の奥にもつれた毛糸玉が溜まっていく感じがする。去年の半ばまでは、獣医としてペットの死を看取る立場にいた。残された飼い主の涙も、そこに込められた思いの深さも、間近で目にしてきた。
レアンドロの死の事実は、墨で塗りつぶされたのだ。誰も、そこに書き込まれた歴史を読み取ることはできない。
ご主人様を舐め尽くしたパグは、今度は診察室の中を探索し始めた。左前足を引きずる様子を見つめる西野さんの表情は、公園で遊ぶ子どもを見守る親のようだ。だからなおさら、俺の思いは解けることがない。
「奥で装具を用意しますので、待合室でしばらくお待ちいただけますか」
「装具っていうのは」
「パペットの体と心の同期を促すために装着する器具のことです。彼に合わせてこれから作ります」
「そんなにすぐ、できるものなんですか」
「うちには優秀な技師がいますから」
「先生、くれぐれもよろしくお願いいします」
頭を下げて退室する西野さんから目を逸らして、パソコンのカルテに情報を入力する。
もう、先生ではない。患者の管理システムも、診察室も、表の看板だって、動物病院だった頃からほとんど変わらない。なのに、俺の救っているのは命ではない。パペットの調整を始めてから、カルテの数は三割増えた。パペットが増え続ける一方で、人形師は絶対数が足りていないのだ。獣医を続けていたら、今頃、廃業していたかもしれない。
カーテンを勢いよく開ける音に振り返ると、出崎が腕組みしながら右膝をしきりに揺すっていた。奥の処置室に鎮座している巨大な3Dプリンターやレーザーカッターを操って装具を生み出す技師――それが彼女だ。
「どう思う?」
「どう思うって」彼女の疑問文は、苛立っている証拠だ。こちらの見解など求めていない。「西野さ……あいつがそうだっていうのか?」
出崎は大仰に溜め息を付き、長い髪をかき上げながら、右手の先にあったディスプレイをタップした。ウィンドウが全画面で開き、診察室のカメラがキャプチャしたパグのモーションデータが再生される。
「左前足、注目ね。最初から行くよ」
出崎お手製のキャプチャシステムは、カメラとデータスキャナを組み合わせたもので、物理的なモーションを青、それを動かそうとするAIの身体イメージを赤で表現する。両者に同期ズレがなければ、パペットの全身は紫色に染まるが、アジャストが必要な場合、赤で表現されたAIの身体イメージが物理的身体の外まで溢れ出す。要するに、イメージ通りに体が動かない状態、というわけだ。
紫に染まったパグが診察室に入室し、言われるがままにお手をして、床に顔を突っ伏す。その間、どこにも同期ズレは起きていない。
「足の不具合は、生前のものってことか」
「西野はどうしてそう言わなかったんだろうね」
パグのパペットが、俺の靴の先に取りすがるようにして、不安げな眼差しを向けている。いや、分かっている。不安そうに見えるのは、少し傾けた首や、肩をすくめたように見える座り方によるもの。あるいは、上目遣いになる位置関係から導き出される印象に過ぎない。巨大な黒真珠のような瞳の向こうにあるのは、感情ではなく、蓄積されたレアンドロのデータの山。その都度、AIが最適と判断した仕草が表に出てくるだけだ。
それなのに――。
腹の底に降りてきたどす黒いものが渦を巻き始め、俺の中に飛沫を撒き散らす。いつもそうだ。人はどうして自分より弱いものを傷つけるのか。椅子から降りてパグの両前足を手に取った。肉球の柔らかさと温かさに、奥歯を噛みしめる。
「確証はあるのか」出崎に話を振る。
「西野翔流――調べたよ。裏垢まで、きれいに掃除したけど」出崎が動画の再生を最小化し、ツールバーからeverynoteを立ち上げる。「まったく、可愛い顔してえげつないことするね」
タグボックスの「#西野翔流」をタップすると、スクリーンショットのサムネイルがずらりと並んだ。焦げ茶色に赤の混じった画像は、拡大する必要はない。見慣れた写真だ。
パペット殺しは、パペットのリリース直後から今に至るまで、緩やかな増加を辿っている。厳罰化し続ける動物愛護管理法に守られたペットたちと違って、パペットは器物の域を出ない。購入さえしてしまえば、あとは壊したい放題。動物虐待の認知件数はパペットのリリース以降、減少し続けている。その背後で起きている現実がこれだ。
「感傷にひたるなら、やめちゃいな」髪をかき上げながら、出崎が唸り声を上げた。ペット数の減少で獣医の仕事が立ち行かなくなっていた俺に、この道を示した張本人が彼女だ。
「もう、そんな段階じゃない」俺は、肉体ではなく、彼らの魂を救う選択をした。
「だったら、とっととドッペル吸出しして」出崎がCADを立ち上げながら言う。キャプチャしたデータを元に、パペットの挙動をリハビリっぽく見せる装具のデザインを組み立てていく。
パグの前足から手を離した俺は、右耳を探ってアクティブ・レベルをゼロにし、逆の耳の付け根に素早くメスを入れた。デスクの下から伸びたケーブルを掴み、パグの体内の端子に挿す。床に寝そべるパグの腹は緩やかに上下している。本物の犬が寝ているようにしか見えない。デスク上のPCでは、既にペッツバーグが立ち上がっている。
生体ログのデータをインポートすることで、生前のペットの挙動を擬態させるのがパペット。一方、データそのものに仮想の身体を与えるのがペッツバーグのようなVRワールドだ。パペットが販売される以前、一部の愛犬家、愛猫家の間で爆発的に流行したが、死んだペットのアバターをディスプレイ越しに眺めたところで、ペットを喪った悲しみが癒えるわけじゃない。最高に賑わっていた頃は、似たようなVRワールドが世界中に二百余りも存在したが、今も稼働しているのはたったの四つ。インターフェイスが日本語に対応しているものはペッツバーグしかない。
生きたふりをしていたパグの腹が、気づくと完全に停止している。エクスポートの進行を示すプログレスバーは七十パーセントを超えた。機械の駆動音に顔を上げると、3Dプリンタが装具の基幹部分を生成し始めている。出崎の手際には、いつもながら驚かされる。左手で引き続きCADをいじりながら、右手では抜け殻にインポートするための汎用データをカスタマイズしていく。
パペットを動かすデータには、ペットの生体ログの他にも、犬猫の品種ごとに調整された汎用データが利用できる。通常は編集不能の汎用データを、出崎はあっさりとクラックし、装具のデザインと組み合わせることで、生体ログ固有の挙動に近づけていく。
軽快な電子音がデータ移動の完了を告げた。キーボードを叩いて、ペッツバーグの新たなアバターを登録する。
名前は……アンドレ。これがお前の新しい世界だ。
PCから抜いたケーブルを出崎の右手の先にあるPCに繋ぐ。3Dプリンタから次々と出来上がってくる素材を組み合わせて装具を作り上げる出崎に代わって、編集済みの汎用データをパグの体に流し込む。たるんだ皮膚の隙間から温かさが漂い、パペットが命を擬態し始めた。
罪の意識を感じないではない。
レアンドロの、ペットたちの魂を抜き取って、VR空間に幽閉することに対してではない。
パペットの体を救うことができないことに対してだ。
過去に一度、パペットの体を救おうとしたことがあったが、結果的に俺と出崎を危険に晒しただけだった。
「両方は救えない。どちらか、選べ」
全てが終わった後、出崎は何の感情もこもらない声で、そう言った。黒髪の後ろに表情を隠しながら、腕を組んで返答を待っていた。いつもなら髪をかき上げるところだが、その時だけは腕組みを解かなかった。彼女も過去に同じ葛藤を経験したのだろう。だから、何もせずに待ってくれたのだ。
どのみち、俺は一人では何もできない。誰も救えない。俺は出崎と同じ選択を選び取った。
「ごめんな。体の方は救えないんだ」
再度の電子音を待ってケーブルを抜き、メスを入れた場所にセルジェルを塗った。パペット専用の縫合用ジェル剤で、傷口を接着させながら細胞同士の結合を助けるため、抜糸の必要がない。経過観察の不要なパペットにはおあつらえ向きの薬だ。データをいじったことを悟られるわけにいかない、俺のような人間にとっても。
「謝るな」横に膝をついて装具を付ける出崎が睨む。「こいつは、命じゃない」
そう簡単に割り切れないのは、俺が獣医だったせいだ。
装具は本来、AIと身体の同期補助を目的としている。しかしパグに与えたこれは、枷だ。汎用データが実現する自然な動作に、適度に不自然さを織り込むためのものだ。出崎は、両前足のバランスを取りながらベルトを調整する。アクティブ・ノブを回して立ち上がらせると、パグは戸惑いながらも一歩二歩と前に進んだ。
「あとは那由多の仕事」出崎に背中を叩かれ、診察室に戻る。引かれたカーテンの下から、覚束ない足取りで出てきたパグは、もはや何者でもない。
レアンドロのカルテに入力しながら、呼び出しをクリックして待合室の西野を待つ。控えめなノックに続いて現れたのは心配そうな表情を顔に貼り付けた男――だが、もう無心に見ることはできない。この男がこれからこのパグにする虐待の数々を思うと、腹の底に溜まった黒い渦が、炎のように逆巻いていく。
「この装具を二週間、装着したままにしておいてもらえれば、きちんとアジャストされますよ」
俺もまた笑顔を貼り付けて、優秀ないい先生を演じる。この先、多くのペットの魂を救うためにも、うちの評判を落とすわけにはいかない。
「外した後も、レアンドロくんの動きに不自然さが残るかもしれませんが、パペットの仕様上の限界もあるので、あまり気にしないでください」
「分かりました」
こういう時、獣医という経歴は効く。彼らはどこまでもパペットを生き物だと思い込んでいる。だから、技術者よりも獣医の言葉を信じるし、ペット代わりの慰み物にもする。
丁寧に頭を下げる西野の視線の先で、パグが静かに震えている。もちろん、恐怖などではない。パペットは、外部環境との同期のために、数秒間にわたって振動することが時々ある。そんなことは百も承知だ。それでも――
「じゃあね」
去り際、抑えきれずパグの背中を撫でた。手の平に残った温かさの先には、さっき見たeverynoteの現実が待っている。奥歯を噛みしめて、叫びそうになるのを必死に押し留める。
「那由多」
「どうした」苛立ちをいなしながらカーテンを開けると、出崎はディスプレイの向こうのペッツバーグを睨みつけている。場所は、出崎がシステムをクラックして作った、自称、廃屋。ここに入れば、ペッツバーグ内の裏庭のデータを閲覧し放題になる。飼い主も主なしも、もちろん個々のドッペルの所在も確認できる。
「アンドレが溶け込めてない?」
「おかしいんだ」
「何が」出崎の後ろからディスプレイを覗き込む。ログインしている飼い主はゼロ。ほとんどのドッペルは広場に集まって遊んでいる。アンドレも同じ。「別に問題ないだろ」
「違う、そこじゃない。総数を見て」出崎の指の先には、個別データではなく、ペッツバーグ全体のメタデータが表示されている。現在稼働中のドッペルの総数は266。「さっき、アンドレを登録した時は、267だった」
「ドッペルの数が減ってる? 見間違えじゃ……」
言っている俺の目の前で、数字が265に変わった。
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