きみは眠る

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 その街に灯りはなかった。何ひとつとして。  かつて摩天楼(まてんろう)と謳われた都市。世界一安全な地上の星よと称えられた、他国の人々がその国に生まれることを夢見るほどの豊かな国。その――首都だった街が無残なほどに打ち砕かれている。  ここにはもう、だれもいない。  白く美しかった電波塔も枯れ木のように朽ち果ててその(むくろ)を天へ晒していた。  その荒寥(こうりょう)とした世界を見下ろせる特別展望台の屋根に、死神のように立ち尽くす影が一つ。  黒い衣に頭までもすっぽりと包まれた様子は大きな鴉のようだ。艶めかい光沢のある衣からこぼれ、吹き付ける風に揺れるのは髪か(たてがみ)か。  背中にたたまれた大きな翼は艶やかではあったが、ところどころ羽がもげて血を流している。  しかしその”獣”は痛みも感じぬ様子で、地上を眺めている。  衣の中から除く瞳は血の色。わずかに降り注ぐ月の光を反射して、流れ出したばかりの鮮血を思わせる。  ナイフのような銀の月から注がれる淡い光に照らされたビル群は、ずたずたに裂けてその機能を(うしな)い、無秩序に傾いて、まるで大きな黒水晶の塊のようにも見て取れる。  廃塔から望めば、誰もがその都市が死んでいると見て取れた。  地上に降りれば降り積もる白い(かばね)怨嗟(えんさ)の声を上げているのだろう。  遠く遠く見通してもこの闇の中では生きているものは何一つ見つからない。死肉を食らう忌まわしい生き物の声すらもない――。  廃塔の上の鴉のほかには。まるでその場では生きることを許されないかのように。時を刻むのを拒むかのように。何もかもがただ静かだ。  やむことのない風に身を任せるように黒い影が舞った。大きな黒翼を広げて羽ばたく、と(たてがみ)のようだった黒髪から白い(おもて)が現れる。  死人のような白い肌。死者にはなむけの紅を刺したかと見紛(みまが)う真紅の唇。それは女の(かお)。ただ一人、世界の支配者として君臨している。死を賜る君主のようだ。  廃塔から舞い降りた鴉の体は人の姿のように見える。しかし、翼が生えて飛翔することのできる人間などこの世のどこにもいない。  死を告げる天使は背の翼を力強く羽ばたかせて、死だけが蔓延(まんえん) する都市(まち)を滑空していく。  やがてやや低いビルの屋上に音もなく降り立つと、ばさりと大きく羽を一度羽ばたかせてから閉じた。  傷ついた翼から紫の血が周囲に飛び散った。失血にわずかによろける女は、それでも表情一つ変えてはいなかった。  屋上から下へ続く階段には、かつてのドアの残骸があったが、既に壊れ扉の役目を果たしてはいない。  女はゆっくりと階段を下りていく。ヒールの靴音だけが動くもののあることを教えてくれていた。  女が向かった部屋には元あったすべての物を取り払い、その中央に祭壇のようなものが(しつら)えてあった。  大きな祭壇は女とは対照的な白。  闇の中では目が痛くなるほどの白だ。  は、闇に支配された都市(まち)で、唯一の聖域のように真っ白で高潔だった。一つの染みもない白いクロスに、一つだけ灯された燭台は銀。  装飾はそれのみで、中央ににクロスに抱かれた(モノ)の髪だけが金色をしていた。  大きく目を引くのは背の翼。女の黒翼は多くの風切り羽を失い無残な様子だったが、その御使いのそれは美しいままでその背を飾っている。  そこは闇の住人のための祭壇ではなく。天の御使い(みつかい)を悼むためのものだった。  白い衣をまとった御使いは祭壇の上で静かに目を閉じて眠っている。  女はゆっくりとその祭壇に歩いていく。  世界中に残った光を全てここに集めたような金の髪は、闇の中にあってなお輝きを失わず、御使いのほほを伝って流れ落ちていた。  女の肌とは質の違う白さの滑らかな肌。髪と同じ色のまつ毛。その閉じられた瞳は春の空を思わせる空色か、海を司る青色か。  みずみずしいその姿はただ眠っているようにしか思えない。  女は祭壇のそばで立ち止まり、枯れたような白い手をそっと御使いのほほに触れた。  その熱のなさに赤い瞳が揺れる。悼むかのように目を閉じれば、そこから透明な雫が零れ落ちた。  女はそっとその頬に赤いバラを手向けた。香ることのない赤い花弁が御使いへの唯一のはなむけだった。  唯一この世界に残された二人。それは、永遠の旅人だった。  ここにはもう、だれもいない。
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